NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

▲ リトアニア大公オルゲルト
ja.wikipedia.org/より

 1368年晩秋、リトアニア大公オルゲルトは、リトアニアとスモレンスクの連合軍を率いて進軍してきた。自身の従士団を引き連れてオルゲルトの軍隊に加わったトヴェーリ公ミハイルは、そこで初めて、この遠征の目的地がモスクワに定められていることを知った。

 大公ドミートリー四世にとっても、これはまったく予想外の事態であった。その時、ドミートリー四世の手元にいたのはモスクワの警備隊だけであり、この警備隊は11月21日のトロストナ川付近での会戦でことごとく深手を負っていたのである。

 しかしながら、リトアニア大公オルゲルトは、三日間の間モスクワを包囲したにもかかわらず、占領することは叶わなかった。その代わりにオルゲルトは、「修道院も教会も郷も村も焼き尽くし、財産を略奪し、無数の人々を捕虜にし、捕虜もあらゆる家畜も連れ去って、軍隊を撤退させた」。「リトアニアによるこれほどの悪事はかつて一度もモスクワで行われたことはなかった」と、年代記には記されているほどである。当然ながら、トヴェーリの人々もこの遠征によって、自分たちの土地を荒廃させたモスクワに復讐を成し遂げたこととなった。

 この結果、ドミートリー四世はトヴェーリ公ミハイルに占領した分領地を戻さなければならなくなった。とはいえ、彼はミハイルを自らの下に服従させる考えを捨ててはいなかった。

 ドミートリー四世は一年半もの間、トヴェーリに向けて遠征する準備をし、それに加えてこの間に、仕返しとしてスモレンスクの幾つかの郷を荒廃させた。また、ノヴゴロドを味方に引き入れることに成功した。一方、モスクワの府主教アレクシーも脇で眺めているだけといったことはしなかった。オルゲルト側に寝返った分領公を教会から破門し、逆に、リトアニア公のもとから去ってきた者からは誓約違反の変節の罪を取り去った。

 1370年の夏の終わりに、モスクワへトヴェーリの主教が和平を確立する提案を携えてやって来たが、ドミートリー四世は逆に以前の平和な関係の決裂を宣言した。

 トヴェーリ公ミハイルは再び助けを求めてリトアニアへ去ったが、オルゲルトは今回ルーシの問題どころではなかった。というのも、オルゲルトはその頃、チュートン騎士団と戦っていたからである。

 ミハイルがトヴェーリの地を離れている間、大公ドミートリー四世は二度の攻撃をなした。8月にトヴェーリの諸々の郷を彼の軍司令官が破壊し、9月7日には彼自らの指揮の下で、モスクワの軍隊はミハイルの世襲の町であるズブツォフ、それに続いてミクリンを占領し、その後「すべての郷とトヴェーリの村を征服し、焼き払い、からっぽにした。さらに多くの人々を捕虜として連れ去り、彼らのすべての財産を奪い、彼らのあらゆる家畜を自分たちの土地へ連れて行った」。

 次回は「長引くモスクワとトヴェーリの対立」。乞う期待!!

(文:大山・川西)

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