NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

▲ コロムナのクレムリンにあるドミートリー四世の像
Википедия, Дмитрий Иванович Донской より


▲ ドミートリー四世の印
Википедия, Дмитрий Иванович Донской より

 1375年、汗国から送り届けられた大公国勅書を手にしたトヴェーリ公ミハイルは、モスクワへ和平破棄を通達し、トルジョークとウグリチには自分の代理人を派遣した。このミハイルに対して、北東ルーシの諸公13~16名が立ち上がり、さらに大ノヴゴロドも自らの部隊を差し向けた。この連合軍を指揮していたのはモスクワ公ドミートリー四世であり、彼はミハイルが軍事援助を受けるまで待つつもりは毛頭なかった。和平破棄のすでに二週間後には、ドミートリー率いる軍隊がトヴェーリに近づいていた。トヴェーリへの強襲は失敗に終ったものの、ドミートリーは町を包囲し、その三週間後には、ミハイルは大主教エヴフィミイと年長の貴族らに和平を願う嘆願書を持たせて送り出すこととなった。

 9月1日には平和条約が調印され、その二日後には連合軍はトヴェーリ公国から撤退を始めた。条約に従って、ミハイルは権利において自らは大公ドミートリーの弟であること、ドミートリーの従兄弟である分領公ウラジーミルと同等であることを認めた。その上、彼は自分と自分の子供たち、自分の甥たちのために、彼らの内誰一人も今後ウラジーミル大公国を得ようとせず、タタールから勧めがあった場合もそれを拒む、という誓いを立てて十字架に接吻した。それに対して、ドミートリーもまた、トヴェーリ公国の内政問題に干渉しないことを約束した。通常のように、平和条約はすべての土地、財産争い、互いの軍事援助の決定を規定していた。条件は無論のこと、モスクワが押し付けたものであった。カシン領はミハイルの権力下から離れ、モスクワは汗国への貢税もトヴェーリを介さないで支払うこととなった。

 平和条約はまったくありふれた内容のものであったが、次のような、全ルーシの利益に関わる根本的に新しい条文があった。すなわち、「…タタール人から我々は平和を取り戻すだろうという考えがある。もし貢税の支払いがあるという考えがあるとすれば、同様に、貢税を支払わないという考えもある」というものである。別の言葉で言えば、汗国へ貢税を支払うか支払わないか、タタールからわが身を守るべきか、タタールを襲撃すべきか、独自で決定するというルーシの法が、公式の文書に書き留められたのである。

 汗国ではすでに何年もの間ドミートリー四世はそれまで再三汗国を軽視してきたが、今やそれを文書の中に書き留めたのである。汗国ではすでに何年もの間流血を伴う内乱があり、汗たちはかつてないような早さでお互いの首をすげ替えていた。一方、ルーシにおいては、イヴァン・カリターの時代から、タタール襲撃の恐ろしさをうわさのみで知る世代が育ち、成人していた。大公ドミートリー四世は明らかに、この世代の勇敢な代表者であり、汗国に対する絶対的な恐怖を彼は体験していなかった。

 次回は「ママイへの挑戦」。乞うご期待!!

(文:大山・川西)

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