NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

▲ ドミートリー・ドンスコイ時代のモスクワのクレムリンの石の壁
https://moscowchronology.ru/history.html より


▲ ドミートリー・ドンスコイ
https://politika-v-rashke.ru/russkie-knyazya-praviteli-kotoryih-pereotsenila-istoriya/dmitriy-donskoy/ より

 トフタムィシ汗によるルーシの地へのこのような不意の襲撃は、明らかに予期されていなかった。大公ドミートリーは早速軍隊を召集することを試みたが、クリコヴォでの壮絶な戦いを終えたばかりのルーシ諸公の間には、茫然自失の感、相互不信や意見の不一致が満ちていた。クリコヴォの決戦での大きな損害によって、諸公は疲弊していたのである。ドミートリー自身もクリコヴォの野で受けた打撲傷から完全に回復しておらず、加えて、彼の妻も息子を出産したばかりであった。

 これらの状況の一つとして、ドミートリーがモスクワを放棄して逃走して良い理由にはならなかった。しかしながら、彼は自分の世襲領地であるモスクワを事実上投げ捨てて運命の手にゆだね、その防衛を軍司令官ではなく、府主教キプリアンに託した。モスクワの町はすぐさまパニックに陥った。キプリアンはトヴェーリへ逃げ出してしまった。モスクワの富裕層は町からの脱出を試みたが、下層市民は民会を開いて抵抗を決意、結局のところ、抵抗派が町の主導権を握り、防衛の強化、脱出の禁止、逃亡者の財産没収という措置を取った。同時に、町の防衛司令官にオルゲルトの孫であるリトアニア公オスチェイを任命、数日後にやって来た彼は、比較的秩序を回復し、「籠城した」。

 1382年8月24日、モスクワにタタール軍が近づいた。オスチェイは、ロシア史上、初めて大砲を用いて、三日の間モスクワの人々と共に町を死守した。四日目、悪知恵と欺瞞によってタタール人はクレムリンに侵入し、そして激戦が始まった。様々な史料は、一万五千人から二万四千人が亡くなったことに言及しているが、それは焼け出された者、モスクワ川で溺死した者、流された者の数は入っていなかった。炎に包まれる首都から生き残った住人が逃げた先が、モスクワ川であった。

 モスクワを灰燼に帰せしめると、トフタムィシ汗は自身の軍隊に奔放な略奪を許した。ルーシ諸公は大公ドミートリーに倣って遠方の地へ去るか、あるいは、トフタムィシ汗のところに恭順の意を表しに馳せ急いだ。結果として、モスクワに続いてペレヤスラヴリ、ウラジーミル、ユーリエフ、ズヴェニゴロド、モジャイスク、その他モスクワ公国の町が破壊された。これらの事態の痛ましい成り行きを変えたのは、大公の従兄弟であるセルポフ公ウラジーミルであった。彼は従士団を率いてヴォロクから出動すると、大規模なタタールの部隊の一つを粉砕し、多くの捕虜を捕えた。無抵抗が広がっていた中でのこのウラジーミル公の反撃はトフタムィシ汗をひどく驚かし、ルーシ諸公が集結して攻撃してくる危険性を感じた彼は、全軍の退去を命じた。

 次回は「復興するモスクワ」。乞うご期待!!

(文:大山・川西)

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