NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

▲ ヴァシーリー一世(1672年)
Wikipediaより


▲ リトアニア公ヴィトフト
Wikipediaより

 1389年の春、重病の大公ドミートリー・ドンスコイは遺言状を作成した。長男のダニールはこの時すでに落命しており、彼の後継者となったのは次男のヴァシーリーであった。ヴァシーリーは1371年12月30日に生まれ、その頃にはすでに18歳間近となっており、完全な成人とみなされていた。ルーシの歴史上初めて、ヴァシーリーは父親から「世襲領地」としてウラジーミル大公国を譲り受けた。加えて、コロムナと、モスクワが直接管轄する土地と財産の一部を手にし、さらにモスクワ国庫からかなりの収入をも獲得した。

 父親の意向により、ヴァシーリーはすでに12歳の頃から重要な政治に関わってきた。トヴェーリ公ミハイルが、汗国でウラジーミル大公国勅書を得るために懸命に動き回っていた1383年、ドミートリー・ドンスコイは自らの利益を守るために、貴族から成る使節団を汗国へ送り出したが、その使節団の正式な長はヴァシーリーであった。結果、ウラジーミル大公国はモスクワの手中に留まることとなったが、同時にヴァシーリーの汗国滞在も長引くこととなった。汗はヴァシーリーと引き換えに銀で8000ルーブルをモスクワへ要求し、ヴァシーリーを建前上は客人として(実際は人質として)手元に置き続けた。タタール人によって破壊され尽くした当時のモスクワ公国にとって、これは途方もない金額で、実際そのような額を集めることはできなかった。1385年、ヴァシーリーの従者が彼の逃亡を計画し、翌年の1386年、ヴァシーリーはモルダビアの軍司令官ピョートルのもとに保護された。

 そこから、父の大公が迎えに派遣した、ポーランド人とリトアニア人貴族から選出された護衛隊に伴われて1387年の1月、ヴァシーリーはモスクワへ帰還した。いくつかの諸史料が指摘しているところによれば、ヴァシーリーはいくつかの経路の中でもプロシアを経由した道を選び、そこで当時リトアニアの内乱のために身を隠していたリトアニア公ヴィトフトに出会ったと思われる。後に、ヴァシーリーとヴィトフトの娘ソフィアとは結婚の合意に至ったが、この交渉を言い出したのがどちらであったのかは不明である。

 1389年3月、ドミートリー・ドンスコイは死去した。同年8月15日、ヴァシーリーはウラジーミルにて汗の使者であるシャフマトから大公国勅書を受け取り、戴冠式を行った。これ以降、モスクワ公がウラジーミル大公位に就くことに意義を唱えようとする者は誰もいなくなり、大公位はモスクワ公が代々世襲するものとなった。翌1390年、ノヴゴロドの使者がモスクワへ到着し、新大公ヴァシーリーは条約文に署名、ノヴゴロドへ自分の代理人を派遣した。

 次回は「ヴァシーリー一世の統治」。
 乞うご期待!!

(文:大山・川西)

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