NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

▲ ティムール
Wikipediaより


▲ 現在のサマルカンドのククサライ広場
Wikipediaより

 1390年12月、ヴァシーリー一世の花嫁となるリトアニア公の娘ソフィアが、モスクワへ到着した。翌年1月9日、彼らの結婚式が執り行われた。

 ヴァシーリーとソフィアがは5人の息子に恵まれたが、父親よりも長生きしたのは、後に大公となる三男ヴァシーリーだけであった。長男ユーリーはわずか5歳で、次男イヴァンは20歳で亡くなり、さらに四男ダニール(他の史料ではドミートリー)が生きたのはたった5か月、1405年1月に生まれた五男セミョーンに至っては誕生後12週間で亡くなった。ソフィアは息子以外にも、マリヤ、ヴァシリーサ、アンナ、アナスターシヤといった娘たちを生んだ。

 ヴァシーリー一世の統治期間に大がかりな戦はなかったが、彼は自身の領土を確実に広げていった。父親の側近貴族らからヴァシーリーが学んだことは、慎重に国務を果たすこと、性急に事を運んではいけないが、同時に根気強く物事に取り組む必要がある、といったことだった。ヴァシーリー一世は、必要があれば果敢に行動し、時には権勢欲が過ぎたり残酷さが過ぎるように周囲から見られることを恐れなかった。民衆は大公を敬い、彼の友人ばかりでなく、彼の敵ですら彼に敬意を払っていた。

 大公ヴァシーリー一世は、従来通り、分領公間のいざこざや紛争の仲裁を為しつつも、モスクワの主導権を強固にしていった。大公国内のいざこざは、リトアニアや大ノヴゴロド、また汗国をめぐる政治問題に連なる類のものではなく、ヴァシーリーに過大な面倒をかけるものではなかった。

 1392年7月、ヴァシーリー一世は、汗国内の込み入った情勢を利用することに決めた。サマルカンドの支配者であるティムールの軍隊が、アラル海とカスピ海からキプチャク汗国に向けて出動したのである。キプチャク汗国のトフタムィシ汗は、大公ヴァシーリー一世の忠誠心を推し量っていた。というのも、トフタムィシ汗には金が必要だったからである。このような状況下にあって、ヴァシーリーは手ぶらで汗の下へ向かったりはしなかったし、言うまでもなく、また手ぶらで帰還することもなかった。トフタムィシ汗は彼に、ゴロジェツ、メシェラ、タルーサ、ムーロム、そして、ニージニー・ノヴゴロド共和国の勅書を授けた。わずか三年ほど前に地元の公に勅書を渡していたにもかかわらず。勅書受け取りにあたって、慣例通り、汗国からルーシへ帰還したヴァシーリーに汗の使者が伴っていたが、タタールの部隊は率いていなかった。ティムールが近づいていることを考慮してか、あるいは、勅書代として臨時に貢税を徴収する必要ないほどに多額のお金をトフタムィシ汗がヴァシーリーから受け取ったのか、どちらかであった。

 不満や抵抗が生じることもなく、新たな土地がモスクワの支配下に入った。

 次回は「ノヴゴロドとの衝突」。乞うご期待!!

(文:大山・川西)

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