NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

▲ イコン『ウラジーミルの生神女』
Wikipediaより


▲ トレチャコフ美術館内に安置された『ウラジーミルの生神女』(写真左手前)
Wikipediaより

 1392年、ヴァシーリー一世とノヴゴロドとの最初の紛争が勃発した。

 ノヴゴロドの人々は大公と結ぶ条約の中で、モスクワ公の裁判に出頭しない権利をほぼ常に獲得していたが、今回、彼らは6、7年前の文書を引き合いに出し、モスクワ府主教の裁判への出頭をも拒否したのであった。双方は交渉するも、解決の糸口は見つけられず、ヴァシーリー一世はノヴゴロドの郷へ軍隊を差し向けた。モスクワ側の攻撃はヴォロクとヴォログダに向けられ、市民らが大公の支持者の一人を殺したトルジョークでは、70人がモスクワへ連行された。見せしめとしてむごい公開処刑がなされ、罪人の手足がバラバラに切られた。これらによってノヴゴロドの人々を黙らせることはできず、彼らは報復として大公国の領地であるウスチュークとベロオーゼロを荒らして焼き払ったが、その後すぐに彼らはヴァシーリー一世と和睦し、裁判管轄のこともモスクワ府主教に同意することとなった。

 1395年、この地に再び土地の奪い合いが勃発したが、再度ノヴゴロドのイニシアチブによって、和平が結ばれた。1397年、今度はモスクワ側は地元の住民の助けを借り、力ずくでドヴィナの地を併合したが、翌年ノヴゴロドの人々はこの自分たちの昔からの領地を取り返した。それ以降は軍事衝突にまで発展するような不和も時折生じたが、1402年から1417年までは概ね平和であった。ヴァシーリー一世は自分が亡くなる少し前に、ノヴゴロドと最終的に和睦した。

 1395年、ノヴゴロドとの紛争に加え、汗国とリトアニアからの容易ならぬ脅威が加わった。ティムールがトフタムィシ汗の軍隊を撃破し、キプチャク汗国に新しい汗ティムール・クトルクを据え、北方へ向かって進軍してきたのである。ヴァシーリー一世は町々に防衛を命じ、自身は軍隊を率いて夏の間オカ川の岸辺に駐屯し、渡河の警備に当たった。

 8月初頭、ヴァシーリーはウラジーミルにあるイコン『ウラジーミルの生神女』をモスクワへ移すよう指示した。しばらくして、エレツを占領して掠奪を行ったティムールは、さらに進軍しようとはせずに、8月末に突然退却した。タタール人は徒歩では戦えず、冬のルーシの森林の多い地で自分の馬たちに食料を与えることは不可能であったからである。しかしながら、ティムールが退いてタタールの襲撃が未然に防がれたことは、イコン『ウラジーミルの生神女』の加護とされ、ヴァシーリーはこれをウラジーミルへ返還せずに、代わりにその模写をウラジーミルへ贈った。

 こうして、ヴァシーリー一世は、リトアニアに取りかかるチャンスができたのであった。

 次回は「モスクワとリトアニアの抗争」。乞うご期待!!

(文:大山・川西)

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