NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

▲ ヴィトフト公時代のリトアニア領土地図
駐日リトアニア共和国大使館サイトより


▲ ウグラ川
Wikipediaより

 ヴァシーリー一世の妻の父親であるリトアニア公ヴィトフトは、内戦を経て1392年からリトアニアの地を統治していた。

 1395年9月末、ヴィトフトはスモレンスクを占拠し、さらに軍隊をリャザンへ差し向けた。このヴィトフトの計画をヴァシーリー一世は前もって知っていたが、リトアニアによるスモレンスク侵略を妨害するつもりは彼にはなかった。というのは、当時のスモレンスク公は悪意に満ちた救いがたい人物であり、スモレンスクの住民は自分たち公の権力下で暮らすよりも、リトアニア公に町を明け渡すことを選んだからである。その上、モスクワ諸公はスモレンスクと同盟関係にはなかった。

 ティムールに敗北したトフタムィシ汗は、リトアニアに逃走していたが、彼はそこで自分の軍隊を補充したばかりでなく、1398年にはヴィトフトと軍事同盟を結んだ。その狙いは、汗国の汗の位にトフタムィシを、ウラジーミルとモスクワの公位にヴィトフトを、というものであった。トフタムィシとリトアニアが手を組んだことを脅威に感じたモスクワは、翌年トヴェーリと同盟を結んだが、戦いにまで発展することはなかった。トフタムィシはます汗国の汗の位を奪取しようとティムール-クルトク汗と対戦したが、最初の会戦においてヴォルスクラ川の岸辺で完膚なきまでに打ちのめされた。1339年8月12日のことであった。その後数年間は、ヴィトフトは何の動きも見せなかった。

 1405年、北の地にあるプスコフとノヴゴロドからモスクワへ、援助を求めて使者が到着した。その頃、ヴィトフト率いるリトアニアはコロジェを占領しており、この後プスコフとノヴゴロドにリトアニアの矛先が向かうのは明らかであった。大公ヴァシーリー一世は防衛体制を整えるために、即座にプスコフの地へ自分の兄弟のピョートルを差し向け、翌年にはリトアニアの地を攻撃するためにヴャジマとセルペイスクに向けて軍勢を送り出し、その年の9月には、彼自身が軍を率いてヴィトフトへ向かっていった。会戦は回避され、親戚関係にある大公たちは、一年間の休戦を結んだ。さらに同じような状況が二度繰り返され、1407年、ヴィトフトは最終的に、モスクワを満足させるような平和条約をプスコフと結んだ。1409年、彼はノヴゴロドとも同じように平和条約を結んだ。同年、ヴィトフトとヴァシーリー一世は、昔からの取り決めによって、ウグラ川沿いを国境とした期限なしの平和条約を結んだ。

 ヴァシーリー一世は自らが統治していた間、時としては北方の地におけるルーシの利益を犠牲にしても、妻の父親であるヴィトフトと友好関係を維持するよう努めた。

 次回は「汗国との紛争」。乞うご期待!!

(文:大山・川西)

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