NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

▲ 現在のガーリチ


▲ 現在のガーリチ

画像は2枚とも gorodarus.ru より

 ドミートリー・ドンスコイの子孫たちの間の権力をめぐる争いは、大公ヴァシーリー一世が亡くなった直後から始まった。ヴァシーリー一世の息子であるヴァシーリー二世が十歳で大公位を継いだ際に、父親に仕えた貴族と後見人会議のメンバーが残った。彼らは初めの内、大公に代わって統治を行っていた。

 慣習にしたがって、故人の親戚と分領公のもとへ悲しい知らせを持った使者が派遣された。ヴァシーリー一世の弟の一人であるユーリーは、兄の葬儀に姿を現さなかった。モスクワへ行けば、十字架に接吻して新大公へ忠誠を誓わねばならなかったからである。ズヴェニゴロドから彼は遠く離れたガーリチへと去り、そこで軍隊を集めた。

 一方、モスクワ側も時間を無駄にするつもりはなかった。まもなく、モスクワ軍がコストロマの方へ出動した。力関係は明らかにユーリーの方が不利であった。彼はニージニー・ノヴゴロドへ去り、その後追跡を逃れてスーラ川を越え、モスクワ軍が近づいてきた頃にはガーリチへ再び戻った。そこへ府主教のフォーチーが、大公からの和平の申し出を携えてやって来た。モスクワ側にはユーリーの兄弟のピョートルとアンドレイだけでなく、かつてユーリーと共に甥に対して中世の誓いを拒んだコンスタンチンもいた。モスクワはユーリーに条件を否応なしに押しつけ、彼の方はといえば、条約に調印させる使者を大公のもとへ派遣する以外、何の選択肢もなかった。その条約の中で、もし大公位を奪取するとすれば、それは汗国を介した平和的手段でのみ行うことを、ユーリーは約束させられた。

 モスクワの大公たちは、大公国勅書を求めて汗国へ赴くことを、かなり前から無駄な手続きとみなしていた。それに加えて、1425年から27年にかけてルーシの地と汗国は、疫病の波(おそらく疱瘡)に二度襲われ、ヴァシーリー二世もユーリーもさしあたり汗のもとには赴くつもりはなかった。

 1428年、後継者を残さずに前大公の弟ピョートルが死去し、ドミートリー・ドンスコイの遺言にしたがって、ピョートルの分領地を兄弟全員で分けねばならなくなった。モスクワ政府は、ドミトロフ公国のすべてをヴァシーリー二世の領地として登録した。その詳細は史料には記されていない。だが、おそらく、このことが原因で大公ヴァシーリー二世とユーリーと間に軋轢が生じたのであろう。同年には新たな和平条約が結ばれることとなった。その条約内で、ユーリーはドミトロフ公国のことには触れずに、ヴァシーリー二世を「最年長の兄」であることを、すなわち、彼の権力が自身の上にあることを認めたが、依然として汗国を介して大公国を獲得する権利は自らに残しておいた。

 次回は「叔父ユーリーとの最初の対決」。乞うご期待!!

(文:大山・川西)

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