NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

▲ スヴィトリガイラ

ru.wikipedia.org/wiki/Свидригайло より


▲ 当時のモスクワ

history.wikireading.ru より

 1431年、ヴァシーリー二世の祖父であり、彼の後見人でもあったリトアニア大公ヴィトフトが永眠した。彼の地位を継いだのは、ポーランド王ヤガイロの兄弟であるスヴィトリガイラ公であった。このスヴィトリガイラは、ユーリーの妻の姉妹の夫に当たり、ユーリーの義兄弟であった。

 それまでリトアニア大公ヴィトフトの介入を恐れて、新大公ヴァシーリー二世に対して実力を行使しようとしてこなかったユーリーであったが、ヴィトフトが亡くなった今、彼が手をこまねく理由はなくなった。さらに、その後継者となったスヴィトリガイラが自分の義兄弟で、援助を期待することもできたのかもしれない。ユーリーは、モスクワへ和平条約の破棄を通告する知らせを送った。

 モスクワのヴァシーリー二世には、選択肢はあまり残されていなかった。叔父ユーリーと戦うか、あるいは、汗国の汗に訴えるか、だけであった。8月15日、ヴァシーリーは汗国に向けて発ち、その一か月後には彼の後を追って、ユーリーも出発した。汗国にはおよそ一年滞在することとなり、そこでは陰謀、買収、約束といったお決まりのことが踏みならされた轍のように行われた。当時16歳であったヴァシーリー二世は、無論まだ経験浅い青年であったが、モスクワ側の使者であった貴族のフセヴォロシキーが活躍し、モスクワの利益擁護に努めた。フセヴォロシキーは、汗に対し、ユーリーが大公位についた場合の汗国にとっての不利益を説き(スヴィトリガイラと義兄弟の間柄であるユーリーは、ロシアとリトアニア間でに反タタール同盟を敷くかもしれない、ということ)、さらにヴァシーリー二世が大公位に就いているのは、古くからある一族の年長制に従ったものではなく、父と祖父からの遺産に基づくという論拠を展開した。

 汗国での訴訟はヴァシーリー二世の勝利となった。ヴァシーリー二世は、ウル‐ムハンマド汗の息子のマンスィリ‐ウランを汗の使者として伴い、モスクワへ帰還した。一方、ユーリーには、ウル‐ムハンマド汗から慰めとして、係争中のドミートロフ公国が与えられた。

 ヴァシーリー二世は、1432年10月5日に行われた新大公の戴冠式の儀式を、ルーシ史上初めてウラジーミルではなくモスクワにて、モスクワのクレムリンの至聖生神女聖堂で執り行った。この時以降、モスクワは正式に首都に、ロシア国家の首府となった。ウラジーミル大公国という名称はまだしばらく使われたが。

 このような状況の中で、定められた儀式を無事執り行った若き大公は、頑固な叔父ユーリーを大人しくさせるために動き出すのである。

 次回は「ヴァシーリー二世の結婚」。乞うご期待!!

(文:大山・川西)

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