NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

434年、モスクワに入場するユーリー公(ミハイル・ゴレーリク画)
warhead.suより

ユーリー公の長男ヴァシーリー・コソイ
ru.wikipedia.orgより

 ヴァシーリー二世が逃亡している間、ユーリーと同盟者たちは1434年3月31日にモスクワへ入場、大公妃マリヤと前大公妃ソフィアを捕虜とし、自分の世襲領地の一つへ護送した。また、大公国の国庫にある財産を没収し、首都の整備に着手した。

 ヴァシーリー二世がニージニー・ノヴゴロドへ向かっていることを知ったユーリーは、自分の元に長男ヴァシーリー・コソイを残して、ヴァシーリー二世を捕えるために年下の息子のドミートリー・シェミャカとドミートリー・クラースヌィを軍隊と共に送り出した。

 しかしながら、ユーリーが勝利の果実に酔いしれたのは、わずか二か月ほどだった。

 ドミートリー・シェミャカとドミートリー・クラースヌィがニージニー・ノヴゴロドへ向かっていたところ、父親ユーリーの急死を知らせる使者が追いついた。その手紙の中で彼らの兄ヴァシーリー・コソイは、自分自身は健在であり、すでに自らを大公として宣言したことを告げていた。兄の無礼な振る舞いにかくも悔しい思いをした二人の弟は、ヴァシーリー二世に大公位を再び奪取するよう勧め、自分たちの軍隊を再編成してモスクワへ進軍した。父親の死後、一か月ばかり権力のトップの座にあったヴァシーリー・コソイは、大公国の国庫財産を奪ってコストロマへ逃走した。

 1434年の夏、ヴァシーリー二世は、一族の年長制に則り、公正な法的地位(大公位)へ就き、ユーリーの息子たちは自らの領地が増し加えられた。すなわち、ドミートリー・シェミャカはガーリチを、ドミートリー・クラースヌィはベジェツキィ・ヴェルフの地を得た。ヴァシーリー・コソイは気が静まらず、モスクワへ二度も進軍したが、二度とも失敗に終わった。最初の敗戦で、彼は自分が奪取した大公国の国庫財産を返還し、タタールからも今後、大公国勅書を受け取らないことを約束させられた。1436年5月の二度目の敗戦で、彼は捕えられてモスクワへ連行され、目を潰されて牢獄に入れられた。その後、彼は牢獄から出ることなく、11年後に死去した。ドミートリー・クラースヌィは大公といさかいを起こすことなく過ごし、1441年に亡くなった。ドミートリー・シェミャカも同じく大公と揉め事を起こさず、軍事的に大公を助けていた。しかし、ドミートリー・シェミャカの真の意図は、ようやく1446年に判明するのである。

 次回は「汗国から追放されたウル‐ムハマド汗」。乞うご期待!!

(文:大山・川西)

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