NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

ウル‐ムハンマド汗
≪Реальное время≫より

現在のベリョフの町
≪Белевская правда≫より

 ユーリー公とその息子たちとの戦いが幕引きしたのも束の間、今度は汗国の方に問題が勃発した。

 諸史料によれば、ヴァシーリー二世は貢税を正確に汗国に納めていた。

 1438年、以前ヴァシーリー二世に大公国勅書を手渡したウル‐ムハンマド汗が自分の兄弟らによって汗国から追放されると、彼は小部隊を率いてルーシ国境付近にやって来た。そして、ベリョフの町を占領して、生活の糧を得るために周辺の地を襲い始めた。

 ヴァシーリー二世は、ドミートリー・シェミャカ(故ユーリー公の息子)や他の軍司令官を長とする複数部隊をウル‐ムハンマドの元へ派遣し、いつものように両者の交渉が始まった。ウル‐ムハンマドは、モスクワに対していかなる敵意も抱いておらず、もし自分をベリョフの地に放っておいてくれるのであれば、自らの部隊を用いてルーシ国境の一部の防衛を引き受ける、と伝えてきた。これを受けて、ルーシの軍司令官らがモスクワと連絡を取り合ったかどうかは定かではない。いずれにしても、ウル‐ムハンマド汗の提案は却下された。となれば、次に続く選択肢は、武器を手に取り戦うこと以外になかった。

 ムツェンスクの町の軍司令官(リトアニアから派遣されていた)の裏切行為もあり、モスクワの軍隊は12月5日に撃破された。こうして、タタール自身の力でルーシ南部の国境を防衛させる好機を逃し、モスクワはその後100年もの間、カザン汗国のタタール人から破壊的な行為を受けることとなったのである。

 ベリョフの地の防備を十分に固められなかったウル‐ムハンマドは、最初ニージニー・ノヴゴロドへ去り、その後カザンに落ち着いた。早くも翌1439年の7月、彼は迅速にモスクワへ近づいたが、10日間で町を陥落させることができなかったので、周辺地域を焼き払い、荒廃させていった。彼らが帰還する道中、コロムナも同様の目に遭った。

 その後の6年間は、比較的何事もなく過ぎた。ヴァシーリー二世は大公国の通常の業務をこなし、彼の軍司令官らは、タタール人とリトアニア人相手に勝ったり負けたりの小さな小競り合いに参戦した。

 次回は「捕虜になったヴァシーリー二世」。乞うご期待!!

(文:大山・川西)

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