NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

ウル‐ムハンマド汗
allmonarchs.netより

ヴァシーリー二世とウル‐ムハンマド汗との戦い
diletant.mediaより

 1445年の初夏、ウル‐ムハンマドがモスクワを攻撃するために自分の二人の息子を送り出した、という報告が届いた。ヴァシーリー二世も、軍隊を率いて彼らに向かって出ていった。

 7月6日、ドミートリ―・シェミャカの応援部隊を待つために、ヴァシーリー二世はスーズダリからほど近いカメンカ川のほどりに駐留していた。その翌日、彼は考え直して、自分の部隊だけを引き連れてタタール軍を襲撃した。タタール軍はモスクワ軍による急襲に最初はたじろいたが、敵兵が少数であることに気づくと、完全にルーシ軍を粉砕した。戦場で死を免れた者は逃走し、諸公を含む多くが捕虜となった。ヴァシーリー二世も同じく、その運命を逃れることはできなかった。

 シェミャカが軍隊を率いて近づいて来た時には、すべてがすでに終わっていた、シェミャカはヴァシーリー二世を解放するために戦おうとはしなかった。

 大公が捕虜となってタタール軍の手に落ちたことは、衝撃的なことであった。大公が会戦で非業の最期を遂げることはままあったし、怖気づいて戦場から逃亡することもよくあったが、大公自身が捕虜になったことは一度もなかった。タタール側にとっても、これはまったく予期せぬことであったと思われる。彼らはヴァシーリー二世を捕虜としたことの証拠として、ヴァシーリー二世が肌に着けていた十字架をモスクワに送ってよこした。

 大公捕虜の報に接し、モスクワは首都の防備を固め、大公妃と前大公妃(大公の母)らは子供たちを連れてロストフへ去った。ところが、タタール軍はモスクワへは進軍してこなかった。

 9月初め、ウル‐ムハンマド汗は他のルーシ諸公と共にヴァシーリー二世を解放したが、その際ヴァシーリー二世に、解放されるすべての者の身代金を払うことを誓わせた。身代金の正確な額は定かではないが、いくつかの年代記には20万ルーブル以上と言及されている。これは当時にとっては莫大な金額であった。

 11月の後半、身代金を確実に徴収するためにタタール人の部隊が付き従い、大公はモスクワへ帰還した。住民には、追加の過酷な賦税が課された。

 この時、ヴァシーリーと共に別のタタール人もやって来、その内には公や軍司令官らもいた。彼らの一部はウル‐ムハンマド汗と反目し合っており、また別の一部は単にルーシの兵役に就くことを希望していた。こういったことは当時としてはよくあることであった。このことは、あらゆる点からいってモスクワに好都合であった。というのも、タタール人は勇士として優れており、国境付近の町や郷、領地を報奨として受け取ると、そこに巡察と防衛の軍務を速やかに組織し、無人の地を開拓し、ルーシの守備隊を確保することができたからである。

 次回は「ヴァシーリー二世、目を潰される」。乞うご期待!!

(文:大山・川西)

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