NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

現在のヴォロコラムスク
ja.wikipedia.orgより

現在のヴォロコラムスク
www.kp.ruより

 ヴァシーリー二世とその家族は、ヴォログダの地から今度はトヴェーリへ向かった。トヴェーリ公ボリスからは、彼らを受け入れる意向が伝えられていたのだ。

 1447年、モスクワ公ヴァシーリー二世とトヴェーリ公ボリスは同盟を結んだ。その当時の習わしによって、その同盟は子供同士の婚約によって確たるものとなった。すなわち、トヴェーリ公ボリスの娘である5歳のマリヤは、モスクワ公ヴァシーリー二世の息子である7歳のイヴァン(後の大公)の未来の花嫁となったのである。

 モスクワと同盟を結んだトヴェーリ公は、シェミャカに、自発的に大公位から退くよう要求する書き付けを送った。

 ヴァシーリー二世が留まるトヴェーリには、彼の支持者らが自分の兵士たちを引き連れて至る所から集まってきた。リトアニアからは、ウル・ムハンマド汗の息子であるカシムとヤグプが騎兵隊を率いて救援に駆け付けた。

 ドミートリー・シェミャカは部隊を引き連れて、彼らを迎撃するためにヴォロク・ラムスキー(現在のヴォロコラムスク)へ出立した。ヴァシーリー二世はシェミャカの軍隊を迂回し、わずかな従士団と共に大貴族であるミハイル・プレシェーフを突如モスクワへ差し向けた。1446年12月25日、ミハイル・プレシェーフとその兵士らは、余計な騒ぎを引き起こすことなく整然と首都へ入り、シェミャカの側近らを捕え始めた。また、側近以外の者らは十字架に接吻させ、大公ヴァシーリー二世への忠誠を誓わせた。その頃、当のヴァシーリー二世は軍勢を率いてヴォロクに近づいていた。シェミャカはガーリチへと逃走し、その後チューフロマにてヴァシーリーの母親を捕えてカルゴポリへ逃げた。ヴァシーリー二世の追撃隊は彼にまで達しはしなかったが、自身の側近らの助言を受けて、ドミートリーはその後ヴァシーリー二世の母親を彼の元へ送り返した。

 1447年2月17日、ヴァシーリー二世はモスクワへ帰還した。この時を境に、彼の決定と振る舞いは変化した。物事を遂行する上で、彼はより堅固に、より根気強く熟慮するようになったのである。彼はルーシの地をモスクワの権力下へ統合する意志がさらに強くなり、その望みを公にするようになった。視力を失った公は、より一層有能な側近を傍に置くようになった。

 ドミートリー・シェミャカは気が静まらず、大公領に襲撃を加えてモスクワにすら進軍しようとしていたが、結局、ノヴゴロドにて1453年7月に急死してしまった。薬草による毒殺であると思われる。年代記はシェミャカの死と大公の名とを結びつけてはいないが、その報を受け取った時に大公がいかに喜んだ有様であったことには言及している。

 次回は「ヴァシーリー二世とロシア正教会」。乞うご期待!

(文:大山・川西)

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