NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

15世紀のノヴゴロド
(Болюх Пётр)
illustrators.ru
より

現在のノヴゴロド
(Марина Яншина)
dergachev-va.livejournal.com
より

 富裕なノヴゴロドは、急速に勃興してきたモスクワ大公国とリトアニア大公国に挟まれ、大きな脅威を感じていた。ノヴゴロドはモスクワ大公国とリトアニア大公国の間で力のバランスを取り、両大公国内部の分立的勢力と結合して、大公権力を牽制しようとしていた。その結果、ノヴゴロドはモスクワ公国内で、大公位を巡ってヴァシーリー二世と対立したヴァシーリーの叔父や従兄弟たちに好意的な態度を取っていた。例えば、ノヴゴロドは町に二回もドミートリ―・シェミャカを受け入れていた。

 ノヴゴロドのこうした態度は、モスクワから軍事的制裁を受ける結果を招いた。

 1455年頃、大公ヴァシーリー二世は、本腰を入れてノヴゴロドに取り組む時期が来た、と判断した。当時、ノヴゴロドではモスクワ大公の特権が実質的に狭められ、大公の権威と収入も低下する一方、リトアニアの影響力と存在が目に見えて強まっていた。

 1456年2月、ヴァシーリー二世は軍勢を率いてノヴゴロドへ向かった。

 彼はヴォロコラムスクの町で迎えられたが、そこには和平の請願書を携えたノヴゴロドの市長がいた。ヴァシーリー二世は和平を受け入れず、しばらくして5000人から成るノヴゴロドの義勇軍を打ち負かした。

 ヴァシーリー二世がノヴゴロドの義勇軍を撃退すると、ノヴゴロドの大主教がヴァシーリー二世の宿営にやって来た。ノヴゴロドとヴァシーリー二世の間を取り持つためであった。習慣に従って、モスクワの貴族や諸公にふんだんに贈り物をした大主教は、ノヴゴロドのために口添えしてくれるよう彼らに頼んだ。おそらく、とりなしはされたのだろう。ヴァシーリー二世自身にもノヴゴロドの人々と真面目に戦争を始めるつもりはなく、ただ服従のみを求めていた。高価な贈り物を得た他に、ヴァシーリー二世はノヴゴロドから、「疲労困憊」代としてノヴゴロド銀貨10000ルーブルを取り立てた。さらに、その後、ノヴゴロドの住民らはモスクワ大公へ忠誠を誓う印として、十字架へ強制的に接吻させられた。

 1456年、ノヴゴロドから120露里のところにあるヤジェロヴィツにて、和平条約が調印された。モスクワによるノヴゴロド併合への第一歩であった。

 この条約に従って、ルーシ史上初めてノヴゴロド人は、民会の文書を自分たちの名によってではなく、大公の名によって書く義務を負い、ノヴゴロドの大きな印章を通用させず、それを大公の印章に取り替えなければならなくなった。さらにモスクワは、ノヴゴロドが自治する居留地であるプスコフとヴャトカも一早く自らの勢力下に入れたのであった。

 次回は「モスクワ公国の拡大」。乞うご期待!!

(文:大山・川西)

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