NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

1456年のモスクワとノヴゴロドの戦い(セルゲイ・イワノフ画)
ru.wikipedia.orgより

現在のヤジェロヴィツ
ru.wikipedia.orgより

 1456年にヤジェロヴィツにて停戦、和平条約を結んだノヴゴロドは、事実上モスクワ大公国の保護国となった。ノヴゴロドには、賠償金の支払い、ドヴィナ地方の一部の割譲、ロストフなどでノヴゴロドが購入した土地の返還、外交権の制限、モスクワ大公の承認なしに文書を発給する権限の停止等が負わされた。

 モスクワ大公ヴァシーリー二世は、いくつかの年代記の中で“ルーシ最後の収集人”と呼ばれている。彼は、好計や背信行為、買収、そして軍事力によって土地を「収集」していったからである。

 1456年、ヴァシーリー二世の命令で、ボロフスクのセルポフ公ヴァシーリーが捕えられてしまった。セルポフ公ヴァシーリーは、大公ヴァシーリー二世の妻の親族に当たり、大公が災厄の中にあった時も彼を裏切ることのなかった人物であった。しかしながら、彼とその一族は謀反の疑いで投獄され、彼の領地は大公の世襲領地として没収された。

 結果、モスクワは極めて広大な領土を自らの権力下へ置くことに成功した。ノヴゴロドの他にもヴァシーリー二世はいくつかの領地を奪い取り、全モスクワ公国を実質的に自分の世襲領地にした。その領土は、モスクワから西におよそ110キロ、南へは190キロ、北には210キロほど広がり、東には何百キロも続いていた。

 ヴァシーリー二世は、自分の子供たちと領土の行く末について、自分が亡くなるかなり前から配慮していた。当時彼の長男はすでに他界しており、後継者とみなされていたのは次男のイヴァンであった。このイヴァンはすでに1449年に、大公の共同統治者として公国間で結ばれた和平条約の一つに出席していた。

 1460年、ヴァシーリー二世はイヴァンを自分の共同統治者として正式に公表し、それ以来、文書による指示も口頭の指示も、二人の大公名によって発せられ、公式文書も二人の署名が為され、または印章によって作成された。ヴァシーリー二世の統治の終わりに近づく頃には、諸公をも含む人々の意識の中では父から子へと公位が受け継がれる新たな秩序が深く根を下ろし、ヴァシーリー二世がまだ存命中に人々は息子のイヴァンを大公として受け入れていた。

 次回は「ヴァシーリー二世の晩年」。乞うご期待!!

(文:大山・川西)

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