NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

カルーガにあるイヴァン三世の記念碑
ruvera.ruより

イヴァン三世が大公位に就いた時の勢力図
ru.wikipedia.orgより

 前大公ヴァシーリー二世は自らが亡くなる前から遺言状を用意し、モスクワの直属領、その国庫からの収入を、自分の五人の息子たちに平等に分けた。それは従来の伝統に従ったものであった。二番目の息子であり、生きている息子たちの中では最年長であったイヴァンは、当然ながら最も重要で広大な領土を相続した。そこには、多くのモスクワの村々と、特に大きな拠点であるルーシの町々が含まれていた。すなわち、コロムナ、ウラジーミル、ペレヤスラヴリ、コストロマ、ガーリチ、ウスチュグ、スーズダリなどである。ヴァシーリー二世は祖父の例にならって、年少の子供たちにも分領地を遺産として与えた。それは、ドミートロフ、ウグリチ、ルーザ、ヴォログダといった分領地の中心地を含む12の町であった。

 イヴァン三世の統治の最初期三年間は、穏やかに過ぎ去った。イヴァン三世は、すでに完全に確立した性格を有した成人になった時に、父親の跡を継いで大公位に就いた。

 イヴァン三世は若い頃から冷静な判断力と慎重さにおいて抜きん出ており、それは通常その年齢の人間が持ち合わせるものとはかけ離れていた。どのような物事に対しても彼は焦ることなく、入念に考え、あらゆる状況を考慮し、そしてただ成功を確信した時にのみ、自らの計画を実行に移した。しかし、計画がひとたび動き出すや、一貫して目的に向かって突き進み、過剰に感情的になることも夢中になることもなく、巧みに状況を利用して、周囲の意見や当時のしきたりも重要視しながら事を進めていった。

 しかしながら、かなり後になって、彼の権勢欲や他人に対する打ち解けなさ、冷淡さ、粗暴さといった気質は顕著となり、隠すところなく完全に現れることとなる。とりあえず、今は先を進めよう。

 イヴァン三世の生涯を通じて、年若い時も老齢にさしかかった時も、彼自身の勇敢さ、豪胆さといったものは、同時代の人々によって語り伝えられていない。

 ヴェネツィア人のコンタリニはその手記の中で、イヴァン三世の外貌のディテールを少しばかり書き残している。それによれば、イヴァン三世は、背が高く、痩せぎすで、男性的な美を醸し出していたという。さらにいくつかの年代記には、イヴァン三世に付けられたあだ名である「せむし」という言葉が散見される。彼は猫背であったと思われる。それは長身の者にはよくあることだっただろう。

 次回は「イヴァン三世とカザンの地」。乞うご期待!!

(文:大山・川西)

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