NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

カザン汗国の国旗
ja.wikipedia.orgより

現在のカザン
ja.wikipedia.orgより

 1486年にカザン汗国のイブラーヒーム汗が亡くなった後、イブラーヒームの子であるアドハムとムハンマド・エミーンが汗位をめぐって争い、アドハムが汗位を勝ち取った。

 敗れたムハンマド・エミーンはモスクワに援助を求め、モスクワの軍隊を引き連れて帰国し、1487年に汗に即位した。このように、イヴァン三世は軍事力を用いてカザンの汗位にムハンマド・エミーンを据えた。カザン汗国では、モスクワ大公国を支持する親モスクワ派とクリミア汗国を支持する親クリミア派の対立が続いた。

 そうこうしている内に、イヴァン三世が己の統治においてもっとも重要な問題の一つとみなしていたものに取り掛かる条件が出揃った。それは、ノヴゴロドを完全にモスクワへ従属させることであった。

 遡ること1456年、彼の父親であるヴァシーリー二世は、ノヴゴロドの民会がモスクワ大公の名によって文書を出し、その文書にモスクワ大公の印章を捺印することを強いて、ノヴゴロドを服従させるための端緒を開いた。その時以来、この状況に大きな変化は見られなかったが、双方ともに、モスクワ公国へのノヴゴロド併合に関する問題が遅かれ早かれ起きるであろうことを理解していた。

 数世紀に渡って自由を享受してきたノヴゴロドの人々が出せる案はわずかであった。自治を失うことに甘んじるか、最後の一人が倒れるまで戦うか、である。どのような中途半端な決定もモスクワを満足させないであろうし、モスクワの軍事力はすでに強大であった。加えて、モスクワが絶大な軍事力を誇るが故に、ノヴゴロドはルーシの地で自身の同盟者を見出す可能性はほぼゼロに等しかった。さらに、ノヴゴロドがそれまで内外の様々な意見に従って、常設軍の維持と要塞の建設にお金をかけてこなかったことも、事態をより緊迫したものにしていた。ノヴゴロドのソフィア側の要塞建設すら、ようやく1484年に始まり、15年間続いていたのである。

 ノヴゴロドが自治権を保持するための唯一の方法は、他国、すなわちリトアニアやポーランドの中で同盟者を探すことであった。だが、民会はこのような提案を受け入れなかった。カトリックの王へ援助を求めることは、正教信仰への背信と解釈され得たからである。

 国防を組織するために、リトアニアで軍務についていたミハイル・オレリコヴィチ(キエフ公の息子でイヴァン三世のいとこ)が招聘することが決定されたのである。

(文:大山・川西)

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