ソマス・パレオロゴス
ja.wikipedia.orgより
イヴァン・フリャジン、イヴァン三世にゾーヤの肖像画を手渡す
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シェロン河畔の戦いに完敗を喫したノヴゴロドは、ポーランドとリトアニアとの連絡を断ち切り、確実に貢税をモスクワに支払い、大公国の土地を返し、民会による文書を廃止しなければならなくなった。事実上の無条件降伏ともいえる。
大公イヴァン三世によってノヴゴロドに課された賠償金額は、ルーシ中で最も金を持っていた聖ソフィア邸ですら驚愕させた。数か月の内に15500ノヴゴロド・ルーブルをモスクワへ送金せねばならず、それはおよそ銀1310㎏に相当した。
モスクワ貴族らは、ノヴゴロドの住民に大公への忠誠を誓わせた。1471年9月1日、イヴァン三世はモスクワへ帰還した。その際、カジミェシュ四世の熱烈な支持者らは手かせ足かせをされて、モスクワへ連れて行かれた。翌年、イヴァン三世は、ノヴゴロド領にあった広大なペルミの地を、さしたる困難に逢うこともなく、1471年と同様武力でもって手中に収めた。
国の諸事と並行して、大公の二度目の結婚問題が解決することとなった。イヴァン三世の最初の妻は、1467年4月22日に亡くなっており、その時大公はモスクワを不在にしていた。この最初の妻マリヤは亡くなった時に体が恐ろしく腫れ上がっており、ノヴゴロドの住民は長いこと、彼女が「毒薬」によって死んだという噂し合っていた。
公妃マリヤが亡くなって二年が過ぎ去る頃に、大公の新たな嫁探しが始まった。歴史研究者らの間ではこの企てを主導したのが誰であるのか一致した見解はないが、ローマ教皇パーヴェル二世であったというのは、可能性としてはあり得るだろう。
1469年2月11日、ローマ教皇の顧問である枢機卿ヴィサリオンの使者が、ローマから書簡を携えてモスクワに到着した。枢機卿はイヴァン三世に、ギリシアの皇女ゾーヤとの結婚を整えるためにローマが仲介することを申し出た。皇女ゾーヤは、モレアス専制公国(ギリシア南部、ペロポニソス半島)の統治者であるソマス・パレオロゴスの娘であり、このソマス・パレオロゴスの兄である最後のビザンツ皇帝コンスタンティノス十一世パレオロゴスの姪にあたった。枢機卿の書簡の中では、皇女ゾーヤに対する大公の興味を掻き立てるために、ゾーヤが正教への帰依ゆえにフランス王とミラノ公爵との結婚を断ったことが記されていた。
イヴァン三世は母親や貴族、府主教に助言を求め、3月8日、花嫁との会見に彼の私的公使であるイタリア人のジャン・バティスタ・デッラ・ヴォルペをローマに遣わした。このジャンは日常ではイヴァン・フリャジンの名で呼ばれており、モスクワで正教徒に改宗し、貨幣鋳造の熟練工としてイヴァン三世に仕えていた。
(文:大山)