NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

アレクシンの町を焼き払う汗アフマト
ru.wikipedia.orgより

現在のリュブツクの町
wikimapia.orgより

 1469年、大公の私的公使であるジャン・バティスタ・デッラ・ヴォルペことイヴァン・フリャジンは、イヴァン三世の花嫁探しのためにローマへ遣わされた。彼は、最後のビザンツ皇帝コンスタンティノス十一世パレオロゴスの姪にあたるゾーヤから結婚の承諾書を取り付け、無事にモスクワへ帰還した。1742年1月17日にはまたもや彼はローマに赴き、今度はそこで、大公の代理として婚約式に出席した。イヴァン・フリャジンは花嫁の肖像画を携えてモスクワは戻り、5月にはゾーヤを迎えにモスクワの公式の使節団が出発した。

 この少し前に、汗アフマトがモスクワに向かって出撃の支度をしているという報が届いた。以前の汗国は分裂の時期を迎え、その領土には、ノガイ汗国、クリミア汗国、カザン汗国、アストラハン汗国、シベリア汗国が出現していた。しかしながら、昔からの汗の玉座は大汗国にあり、そこを統治していたのは、ヴォルガ川からドニエプル川までの土地を領有しているアフマトであった。イヴァン三世が汗国に貢税を定期的にきちんと支払っていたかどうかは定かではないが、ロシアの史料には1470年に支払いの記録が残っている。この事件の裏にあったのは、おそらく、ポーランド王カジミェシュ四世のモスクワに対する陰謀であろう。彼がノヴゴロドをめぐる紛争に片足を突っ込む好機を逃したのは、それほど前のことではなかった。

 大公はすぐさま、交渉するために大汗国に自らの使者を遣わしたが、汗は自身の決定をくつがえさず、1472年7月30日、汗の軍隊はルーシ国境へ進軍を開始した。

 モスクワへの急行軍はうまくいかなかった。アレクシンの町(現トゥーラ州の河港都市)付近ですでに、ルーシの前線部隊がタタール軍を長いこと食い止め、オカ川の左岸に渡河させなかった。

 ルーシ軍の主力が戦闘に着手しようとすらしないことに気づくと、汗はアレクシンの町を焼き払い、軍を自身の宿営地へ引き上げさせた。加えて、彼の軍隊の中ではペストが流行り始めていた。一部の歴史家は、まさにこの事実がタタール軍の後退の原因となったとしている。

 翌年、汗はモスクワと和平条約を結ぶために使節団を遣わしたが、貢税取り立ての計画に関してはすでに時遅し、であった。イヴァン三世が、毎年の汗国に対する貢税をこれ以上は支払わないことを決定したからである。

 アフマト汗と和平条約を交わした後、大公イヴァン三世は、陰謀を図ったカジミェシュ四世に仕返しをするため、リュブツク(14世紀にリトアニア大公国に買収された)の郷に軍隊を差し向けた。

(文:大山)

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