NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会
▲ エストニアの首都タリン(昔のレーヴェリ)ru.wikipedia.orgより

ゾーヤ(ソフィヤ)・パレオロギナ
ru.wikipedia.orgより

 1472年9月21日、ゾーヤ・パレオロギナは海路でレーヴェリ(現在のエストニア共和国の首都タリン。フィンランド湾に面する)へ到着した。モスクワに向かってルーシの領土を旅している間、彼女は大公の花嫁としてしかるべき敬意を人々から払われた。ルーシでは遠い昔から、?せ細った女性というのは人気もなかったし、注目を浴びることもなかった。女性はかっぷくが良くなければ、その美しさというのは話題にも上らなかったのである。ゾーヤ・フォミニチナは、その稀なる肥満でヨーロッパでは大分前から有名であった。あらゆることから判断するに、彼女の体形の大きさは実に強い印象を、ルーシの地で周囲に与えたようである。というのは、モスクワまでの旅が始まってすぐに、ゾーヤは「異国の巨漢」との異名を与えられたからである。

 11月12日、ゾーヤはモスクワに到着し、その日の内に、仮の木造のウスペンスキー大聖堂でイヴァン三世との結婚の儀式が執り行われた(ウスペンスキー大聖堂はちょうど改築中であった)。この日に、ゾーヤはロシア名ソフィヤを得た。

 皇女と共にモスクワへやって来たのは、多くの従者、枢機卿アントーニー、それとルーシの言葉を知らなかったソフィヤの個人通訳者であり相談者でもあり、東方帰一教徒(ローマ教皇の首位権を認めながらギリシア正教会固有の言語・典礼を保持する)であったドミートリー・グレク・トラハニオトだった。すぐに明らかになったことは、稀に見るほどの肥満に加えて、大公妃が並々ならぬ知性とエネルギー、狡猾さ、意志の力を持っているということであった。こういったことが、イヴァン三世が重要な政治問題を決定する際に彼女が異常な影響力を及ぼしたという伝説を作り出すこととなった。

 この伝説を裏付ける事実はなく、権勢欲の強かったイヴァン三世は、妻に自分の仕事に口出すことを許しはしなかっただろうと思われる。信頼できる史料が語るのは、彼ら二人が大公国一家としての普通の生活を送り、ゾーヤの役目は子供たちのことと家事の一部に限られていたということである。もちろん立場的には陰謀も避けられず、それゆえになおさら、大公の側近内でソフィヤは権威を持たなかった。最初の子のワシーリー(後の大公)は1479年3月25日に生まれた。その後、ユーリー、ドミートリ―、セミョン、アンドレイ、娘のエレーナ、フェオドーシヤ、小さなエレーナ、エヴドキヤが生まれた。この結婚のおそらく唯一の好ましくない結果は、ゾーヤことソフィヤがリューリック一族にパレオロゴス家の血の弱点を持ち込んでしまったことである。すなわち、パレオロゴス家には、神経や精神疾患の傾向がかなりはっきりと表れていた。

(文:大山)

PAGE TOP