NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

イヴァン三世時代のモスクワのクレムリン
≪история.РФ≫より

イヴァン三世
ru.wikipedia.orgより

 イヴァン三世に対するソフィヤの影響力というものはもちろんあったが、国務に関して言えば間接的な影響しか及ぼさなかった。

 しかしながら、ビザンチンの最上流階級に属する者の存在は、宮廷の儀式に絶大な意義を付与し、そういった儀式は皇帝の尊厳と権威への賛美を促すこととなった。ビザンチンの最後の皇帝はすでに生きてはいなかったが、かの皇帝の最も近しい親族の一人であるソフィヤは、宮廷生活の慣習と儀礼の疑いもない継承者であった。そういった面においてイヴァン三世は極めて影響を受けやすく、彼の治世において宮廷生活が根本的に変化した。加えて、ソフィヤとの結婚は、パレオロゴス家の子孫が持つ相続権がルーシの大公一家に移ることを意味した。イヴァン三世は自らのことを、すでに存在しないビザンチン皇帝一家の後継者とみなしていたかもしれない。彼は宮廷での礼式を取り入れ、その中には、彼の手に接吻するといった作法も含まれていた。いくつかの史料は、外国の大使が謁見する際の式次第の考案者をイヴァン三世とみなしている。この式次第は、その後に続く大公たちも用いた。宮廷生活に変化がもたらされるのは、さほど不自然な感じには見えなかった。というのも、ルーシには正教会が導入されており、正教会の煌びやかな儀式にすべての者が昔から慣れていたからである。イヴァン三世は自分の性格に合わせて、日々の事柄を中断したり慌てたりすることなく、宮廷生活を変えていった。

 1475年1月21日から翌年の1月26日までの一年間、イヴァン三世は大公国の諸事のためノヴゴロドに滞在した。

 1471年のシェロン河畔の戦いに完敗を喫しノヴゴロドが大公への忠誠を誓った後も、リトアニアの支持者らは決して心穏やかではなく、ノヴゴロドのスラヴェンスキー地区住民はそういった彼らから略奪を受けていた。伝統に従えば、ノヴゴロドの官吏を裁くことができるのは地元の領主評議会か民会だけであったが、いうまでもなく、こういった状況から、スラヴェンスキー地区の住民は地元名士よりもモスクワをより頼みにしていた。大公宛の訴えには20人以上の略奪の首謀者の名前が書かれてあった。訴えを受けたイヴァン三世は、事件を審理するために3人の貴族と、さらにはこの訴えとは関係のない、モスクワに対する最も熱心な敵対者の一人を逮捕するように命じた。このエピソード自体は取るに足りないものだった。とはいえ、イヴァン三世がノヴゴロドでそれまで守られてきた裁判の伝統を破っても、ノヴゴロドの人々の側からどのような暴動も起こらなかったのであり、それ自体が一つの事件であった。それは、名前が挙げられた訴えがあり、大公が自身の権力でもってその訴えを審議することができたからであった。

 だが、これによって、ノヴゴロドにおいて裁判権が二重に存在する前例が作り出されることとなったのである。

(文:大山)

PAGE TOP