NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

ノヴゴロドの城壁に近い本陣にいるイヴァン三世
ru.wikipedia.orgより

ノヴゴロドの要塞
Русская историческая библиотекаより

 ノヴゴロドのスラヴェンスキー地区住民による訴えが、地元の領主評議会や民会を飛び越えてイヴァン三世のところに持ち込まれ、それが解決されると、地元の裁判で勝てなかった様々な身分のノヴゴロド住民が、イヴァン三世に裁定してもらえるようモスクワを目指すようになった。

 1477年4月、モスクワにはノヴゴロドからのたくさんの請願者が集まっていた。そういった者たちの誰彼は、イヴァン三世を喜ばすために、わざと言い間違えて、彼のことを「殿」ではなくて「陛下」と呼んだ。

 当時、公の場では、ノヴゴロドとイヴァン三世は、双方の立場の平等性が強調されるように、「大ノヴゴロド殿」「大公殿」と呼びかけられていた。君主の称号をイヴァン三世に認めることは、ノヴゴロド人にとっては由々しき事態であった。というのも、大公が君主としてノヴゴロドに君臨するとすれば、それはノヴゴロド人が有していた自治権(立法権と裁判権)がなくなり、ノヴゴロドの地が普通の分領地と変わらない地位に下ることを自動的に意味していたからである。

 イヴァン三世は、すでにこういったことについて思いめぐらしていたと思われる。そして、ちょうど良い機会がやって来たのであった。

 モスクワの2人の貴族が、イヴァン三世を君主として承認するよう求める提案を携えてノヴゴロドへ赴いた。ノヴゴロドの民会は当然この提案をはねつけ、イヴァン三世に提案のきっかけを与えたノヴゴロド市民を法の保護対象外扱いとした。その後、モスクワ派の何人かの貴族と、裁判のためにモスクワへ行って戻ってきた幾人かを殺害し、町からモスクワの商人を追放し、彼らの屋敷を略奪して荒らした。そして最後はやはりまた、ポーランド王カジミェシュに対して叫んで訴え始めたのである。反乱の兆候はすべて出そろっていた。

 1477年9月30日、和平の決裂に関する書簡がノヴゴロドへ届けられ、10月9日、イヴァン三世は「彼らの間違った行為のゆえに武力の力によって彼らをいさめるため」に、軍隊を率いて進軍した。トルジョークに達する頃には、大公のところには、イヴァン三世の軍隊で軍務に就かせてもらえるよう願い求めて、様々な階級のノヴゴロド人が大勢やって来た。11月、ノヴゴロドは包囲された。ノヴゴロド市民はまた、防衛派と交渉派の二つに分裂した。交渉することを主張したのはノヴゴロドの大主教であり、彼の発言は大きな影響力があった。ノヴゴロドの使者たちは大公の本陣へ赴き、大公は彼らに敬意を表して宴会を催した。ノヴゴロドとモスクワの交渉は1月半ばまで続いた。

(文:大山)

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