NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

▲ 15世紀のルーシ大公家の紋章
ru.wikipedia.orgより


▲ エレーナ・ヴォロシャンカ
dzen.ruより

 イヴァン三世の共同統治者であった孫のドミートリーが、退位させられた経緯は次の通りであった。

 1489年、イヴァン三世は、当時慣例となっていた抽選によってではなく、彼自らがゲンナジー・ゴンゾフをノヴゴロドの新しい大主教に任命した。このゲンナージー・ゴンゾフは地元の聖職者と折り合いが悪く、互いが互いを異端だとして非難し、ゴンゾフによって不満を持つ者らの迫害が始まるようになった。

 ある時、最後の審判をめぐっての論争が起こり、ノヴゴロドの修道士の一部が、ユダヤ人の学者で占星家であるエマヌイル・バル・ヤコフの予想を引き合いに出した。すると、ゲンナージーはヤコフを引き合いに出した一部の修道士を、ユダヤ教徒の秘密セクトに属する「ユダヤ派」の罪で告発し、彼ら全員を死刑に処すよう求めた。この紛争の根底にあったのは、単なる神学論争というよりも、モスクワの教会の聖職者上層部で行われていた聖職売買の実態があった。ゲンナージーは2000ルーブルという当時では巨額のお金を払って大主教職を買った、という噂がささやかれていた。ノヴゴロドの多くの聖職者は迫害から逃れてモスクワの教会へ移り、彼らの一部はエレーナ・ヴォロシャンカ(イヴァン三世の亡くなった息子イヴァンの妻、すなわち孫のドミートリーの母親)から保護を得た。こういったことは当時、珍しいことではなかった。

 1502年4月11日、イヴァン三世は、「ユダヤ派」の異端の罪で寡婦のエレーナを逮捕するよう命じた。異端者の息子は、当然のことながら、正教を奉じるルーシ大公の公位を継承することはできなかった。共同統治者であった孫は公位継承者の地位から引きずり下ろされ、さらには逮捕された。

 イヴァン三世は、死者への祈祷の中で彼らの名を挙げること、そしてドミートリーを大公と呼ぶことを禁じた。孫の逮捕から三日後、イヴァン三世は息子のヴァシーリーを公位継承者として公表し、「ウラジーミル大公国およびモスクワ大公国に据え、全ルーシの専制君主に任じた」。

 自分の為した行為の説明をするのはイヴァン三世の流儀ではなかったが、彼は後日後継者決定をめぐって起こったことを、簡単に分かりやすく次のように説明した。

 「果たして私は自分の孫、自分の子供たちを自分の思い通りにできないのだろうか。私は自分が望む者に公国を与えるのである」

(文:大山)

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