1503年4月7日、大公妃ソフィヤが逝去した。
30年連れ添った妻に先立たれたことは、君主であるイヴァン三世にとっても非常な心痛であったようである。この時期、イヴァン三世の「力が抜けていった」という言及が初めて年代記の中に登場する。
ほどなくして遺言書が作成された。祖先の先例に倣い、イヴァン三世は大公位継承者に、極めて重要な世襲領地を残した。ヴァシーリーは66の重要都市とそれら都市に従属する地を継承し、彼の四人の弟たちは30の町を受け取った。
イヴァン三世はモスクワの地を子供たちに分配せず、モスクワ郊外の村々を含むモスクワ全体をヴァシーリーに譲った。モスクワを自分のものとしたヴァシーリーには、モスクワの地から毎年上がってくる収益から弟たちに100ルーブルずつ渡す義務があった。
分領公たちには、自分たち独自の硬貨を鋳造することが禁じられた。
1506年の後半になると、イヴァン三世からは「手と足が麻痺し、視力も奪われた」ほどに病が悪化した。民衆の大部分がヴァシーリーではなくてドミートリーの方を大公位の後継者とみなしているという情報を以前から耳にしていたイヴァン三世は、死の間際になって孫との和解を試みたようだった。ドミートリーからは枷が外され、彼は宮廷へ連れてこられた。その後の詳細は不明であるが、とはいえ、遺言書の中にドミートリーの名が現れることはなかった。
自らの死期が近いことを悟ったイヴァン三世は、皆に聞こえるように遺言書を読み上げ、牢獄からすべての囚人を解放するよう、イヴァン三世の金によって債務者を自由の身にするよう命じた。
彼は修道士になるための剃髪式を執り行うことを望まず、1506年10月27日の深夜12時過ぎに静かに息を引き取った。イヴァン大帝の名でも知られ、ルーシ北東部を「タタールのくびき」から解放し、さらにモスクワ大公国の支配領域を4倍にも増した大帝の最期であった。ノヴゴロド公国、トヴェーリ公国、ヤロスラヴリ公国、ロストフ公国などを統一した彼がひたすら突き進んでいったそのプロセスは、領地をかき集めた以上に、自らの手中に「権力」をかき集めていった過程であったともいえよう。
イヴァン三世はモスクワのアルハンゲリスキー大聖堂に埋葬された。
彼の死後、モスクワ大公国は強大な統一国家として発展してゆき、現代に至るまで政治の中心地であり続けている。そして、彼が中世において完成させた黎明期の「独裁政治」は、その後もモスクワの地から拭い去られることなく、現代に至るまでロシアの歴史の中でさまざまな形で発現し、また増幅していくのである。
(文:大山)
当連載は2006年5月号から始まった。足かけ18年でようやく終了を迎えたわけだが、やはり心痛かったのは2022年5月末に共著者の川西信義さんを亡くしたことである。彼が元気でいてくれたら、おそらくこの連載はもう少し続いていたであろう。ロシア中世史への、そしてその時代に生きた人々への愛と関心を私に芽生えさせてくれた彼がいなかったら、これほど長い連載は不可能であった。
20年近くロシア中世史を紐解き続けて、理解したことが一つある。それは、現代のロシアという国は明らかに中世のモスクワ公国を起源としており、そこから間違いなくいくつかの遺産を受け取っているということである。また、ビザンチンの流れを汲むロシア正教も、現代に続くロシアの文化的土壌の一部を成しているということである。
そのような意味では、歴史と文化、そして過去と現在を分かつことはできない。このことを肝に銘じつつ、ロシアという国に今後も迫っていきたい。
(大山 麻稀子)