1980年9月14日、ソビエト体制下にあって、クリコヴォ戦勝600年祭が祝われた。一週間に及んだこの祝典では、最終日に総主教ピーメンが…続きを読む
ウラジーミル大公国を「自分の世襲領地」として息子に遺すことを明言した大公ドミートリーの遺言状であるが、いくつかの史料では、ドミートリーが汗国の力を軽視していた証拠としてこの事実が説明されている。…続きを読む
年代記作者は、タタール軍退却後にモスクワへ戻ってきた大公ドミートリーが、モスクワの地の数多の屍、破壊の跡の恐るべき光景を見て痛ましい涙を流したことを、記している。…続きを読む
トフタムィシ汗によるルーシの地へのこのような不意の襲撃は、明らかに予期されていなかった。大公ドミートリーは早速軍隊を召集することを試みたが…続きを読む
クリコヴォの戦いにおける勝利は結果的に、ルーシの敵対者に手を貸してしまうこととなった。このドン川岸辺での激戦まではキプチャク汗国はママイによって忍従を強いられていたが…続きを読む
リャザン公オレーグは、タタールの動静について情報をモスクワへ送りつつも、それと同時に、ママイ、そして彼の同盟者であるヤガイロと密かに水面下で交渉を始めた。…続きを読む
カザンの地で汗国の公がモスクワへの貢税支払いを強要されたことを受け、ママイはモスクワに、経験豊かな軍司令官であるムルザ(タタールの小士族)のベギチを長とする、何万という軍隊を差し向け、それによってルーシに対してかつてのような権力を振おうと試みた。…続きを読む
時代が少し遡ること1371年、大公ドミートリー四世の大公国勅書を承認したママイ(第155回参照)は、ウズベク汗やチャニベク汗がその統治時代に歴代の大公らから受け取っていたものよりも少ない貢税で満足しなければならなかった。…続きを読む
1375年、汗国から送り届けられた大公国勅書を手にしたトヴェーリ公ミハイルは、モスクワへ和平破棄を通達し、トルジョークとウグリチには自分の代理人を派遣した。…続きを読む
援助を求めてリトアニアに赴いたものの、チュートン騎士団と戦っていたリトアニア大公オルゲルトから何も得られなかったトヴェーリ公ミハイルは、そこから真っ直ぐにヴォルガの岸辺へと向かった。…続きを読む