1469年、大公の私的公使であるジャン・バティスタ・デッラ・ヴォルペことイヴァン・フリャジンは、イヴァン三世の花嫁探しのためにローマへ遣わされた。…続きを読む
シェロン河畔の戦いに完敗を喫したノヴゴロドは、ポーランドとリトアニアとの連絡を断ち切り、確実に貢税をモスクワに支払い、大公国の土地を返し、民会による文書を廃止しなければならなくなった。…続きを読む
ノヴゴロドから依頼されたカジミェシュ四世(ポーランド王でありリトアニア大公)が、南方からルーシを急襲するよう汗国に急使を送った事実は、モスクワのイヴァン三世によるある決定を促すこととなった。…続きを読む
モスクワに対抗して国防を組織するために、ノヴゴロドの民会はミハイル・オレリコヴィチ(キエフ公の息子でイヴァン三世のいとこ)(※)を招聘した。…続きを読む
1486年にカザン汗国のイブラーヒーム汗が亡くなった後、イブラーヒームの子であるアドハムとムハンマド・エミーンが汗位をめぐって争い、アドハムが汗位を勝ち取った。…続きを読む
1450年代にはすでに、タタール軍に対するルーシの軍事力の優位性が顕著になっていた。ルーシの軍隊はタタール軍の襲来を首尾よく撃退するようになった。…続きを読む
前大公ヴァシーリー二世は自らが亡くなる前から遺言状を用意し、モスクワの直属領、その国庫からの収入を、自分の五人の息子たちに平等に分けた。それは従来の伝統に従ったものであった。…続きを読む
大公ヴァシーリー二世は、自分の二番目の息子であるイヴァンの運命を、自分が死ぬかなり前から描き上げていた。その頃になると、大部分の諸公や民衆の意識の中には、公位が父から息子へ継承されていく新たな秩序が…続きを読む
年代記に記されているヴァシーリー二世の晩年のエピソードは、極めて残酷なものである。1462年の初め、すでに六年間も監禁状態にあった、セルポフ公ヴァシーリーを解放するために彼の腹心らが陰謀をめぐらせた。…続きを読む
1456年にヤジェロヴィツにて停戦、和平条約を結んだノヴゴロドは、事実上モスクワ大公国の保護国となった。ノヴゴロドには、賠償金の支払い、ドヴィナ地方の一部の割譲、ロストフなどでノヴゴロドが購入した土地の返還…続きを読む