許せない歴史の偽造 ~自由社、育鵬社の歴史教科書~
ロシア革命について(2)
〔十一月革命〕
三月革命後,ソビエトは戦争の継続に同調したが,1917年4月ボルシェビキの指導者レーニンが亡命先のスイスから帰国,戦争の中止と社会主義革命の断行を指示した。「パンと平和と土地を」とうったえるボルシェビキは人々の支持を集め,首都とモスクワのソビエトで優勢となり,11月7日武装して決起し臨時政府をたおした。翌日,レーニンが指揮するソビエトが権力をにぎり,戦争の中止・地主制の廃止・労働者の生産管理・ロシア内諸民族の自決権を宣言。さらに1918年1月には,ボルシェビキがソビエトから反対派をおい出して,独裁を行い,社会主義化をすすめ,赤軍をつくって国の内外の反革命軍とたたかった。レーニンははじめ,ヨーロッパ各国にも革命がひろがると期待したが実現しなかった。1922年12月,ロシアなど4つのソビエト共和国からなるソビエト社会主義共和国連邦の成立が宣言された。
「学研キッズネット」のロシア革命に関する記述は以上の通りである。
ここにはロシアの労働者・農民が皇帝を頂点とする封建的な地主階級の専制政治を倒して、労農政権を樹立したことが明確に書かれている。
山川出版の〔山川日本史〕では「連合国の一員だったロシアでは、1917年3月、ロシア革命がおこって帝政はたおれ、同年11月にはレーニンの指導により、世界最初の社会主義政権(ソヴィエト政権)が誕生し、翌年、ドイツおよびオーストリアと単独講和をむすんだ。」と記されている。
自由社、育鵬社の教科書は革命を「暴動」と称しているが、「暴動」の契機が「血の日曜日事件」のようなロマノフ王朝の武力による、非武装の労働者・市民に対する、4,000人にものぼる死者を出した残虐な弾圧であったことには一言も触れていない。 これは白を黒と言いくるめるものである。
(柴田)
私の見た中・東欧諸国の現在(4)
ポーランド・オシフィエンチム(アウシュビッツ)
「歴史を記憶しようとしないものは、再びその途を行く」
―ジョージ・サンタヤナ(スペインの終身市民、哲学者)
2012年4月27日、クラクフから64Km程のオシフィエンチム(イディッシュ語、ドイツ語名はアウシュビッツ)を訪れ、世界遺産のアウシュビッツ強制収容所を見学した。案内は「アウシュビッツ博物館案内」(凱風社)の著者として知られる現地在住の中谷剛氏にお願いした。この紙面では収容所の全容を紹介することは出来ないので、読者の皆様には是非この本をお読みになるよう強くお勧めする。非常に優れた案内書である。
私が実際にこの収容所を見て感じたのはその目的の残忍さ、規模の大きさ、保存・展示されている資料の膨大で生々しかったことだった。「戦争の惨禍を忘れてはならない!」と訴えているようであった。
この収容所で殺された人の数は未だにはっきりしていないが「100万人を遥かに超える数」という事である。
殺した人達の所持品の大部分はドイツ人が再利用する為に貨車で各地に送り出された。また終戦時、証拠隠滅のため焼却されたものもある。それでもなお此処には;男性用衣服246,820着、婦人用衣服836,225着、子供用衣服115,063着などが残されている。1942年10月のナチの秘密指令書には「クリスマスを迎えるにあたって、アウシュビッツやルブリンの収容所倉庫からドイツ市民25万人分の衣服や日常生活用品を供出するように」と記されている。
殺す前に女性から刈り取られた髪の毛1,850kgが展示されていた。ソ連軍による開放時7,000kg発見されたものの一部である。ドイツの衣料品会社や絨毯工場へ売られ糸や靴下などに加工されたとのこと。
ナチスは収容者を騙し「東方の地に移住して貰う」といって財産を鞄につめて持参させ、それを没収した。鞄には収容者の番号や氏名が記されている。
―続く―
(柴田)