日露領土問題の歴史(5)
1604年(慶長9年、黒印状を受けた、松前藩は「場所請負人」を通したアイヌの間接支配を広げる。
1635年(寛永12年)、松前藩は北海道全島及び千島、樺太を含む蝦夷(えぞ)地方の調査を行う。
1638年、ロシア帝国はオホーツク海に到達、南方進出にのりだす。
1644年(正保元年)幕府が作成した所謂「正保御国絵図」には、「くなしり、えとほろ、うるふ」などの島名が記載あり。
1759年 エトロフの乙名(集団の中での指導者を指す言葉、おとな)カッコロが松前藩に対し、ロシア人がクルムセに居住していることを明らかにする。ロシアの狩猟隊、エトロフ島に上陸、周辺のアイヌに暴行して去る。
1766年(明和3年)ロシア人が初めて得撫(うるっぷ)に来島、長期滞在、越年したが、住民の反抗にあって翌年帰国。
1768年 コサック百人長のイワン・チョールヌイがエトロフ島に上陸。アイヌのラッコ猟場を荒らし、小規模な抗争となる。
1770年 エトロフ、ウルップ島にプロトジャコノフ商会のロシア人狩猟者(隊長イバレンエンチ)が乗り込み、クリルアイヌに暴行。長老らを殺害。
1771年、ウルップ現地のアイヌはロシア人に逆襲。20人を殺害し、残りを追放。
ぺニョフスキー事件。ロシア船、阿波・奄美大島に漂着(安房、伊豆大島説あり)。カムチャッカからの脱走者ぺニョフスキー*が、ロシア人の意図を長崎商館長に「ロシア人が千島に砦を築き、 松前およびその他の諸島をうかがっている」と警告。
1772年6月、ロシア人が霧多布(現在の霧多布ではなく根室周辺)に入る。通商の申し出に対し松前藩は「来年回答する」と言って帰国させた。
1773年、ロシア人48人が再び来航。「蝦夷地での通商行為は国禁であり、長崎で幕府と交渉すること」と通告。その後、ロシア人は再々この方面に進出して、住民との間に衝突が絶えなかった。
1778年、ロシア船蝦夷地厚岸に来航して松前藩に通商を要求、翌年、松前藩はこれを拒否。
(次号に続く/柴田 順吉)