ムルマンスクへ帰宅してから、某紙に気になる記事を見つけました。"Памятный знак могут снести(慰霊碑は撤去されるかもしれない)"有志皆の気持ちが籠められた慰霊碑、撤去されたくない。その記事に従い、関係各署へ根回し開始。州内とはいえ管轄が複数にまたがるので、厄介でした。露外務省ムルマンスク州分室と州知事宛てに先行して懇願書を送り、念押しで公式書簡を送付するよう領事部にお願いもしました。国道管理局M-18に連絡が着き、8月9日に露外務省ムルマンスク分室から依頼があり8月23日頃回答書を出す、と道路保全維持課の所長から伺いました。領事部が根回ししてくれたんだ、感謝。
<クナシリのフルカマップ首長マメキリ、セツハヤフら41人が一斉に蜂起し、松前藩の足軽、飛騨屋の現地支配人・通辞・番人ら22人を殺害、シベツ付近のアイヌ89人も加わり、メナシ地方(標津・羅臼付近)の支配人、番人ら49人を殺害しました。和人で生き残った者はわずかに4人、この事実が松前城下に伝わり、260人の鎮圧隊が組織され、ノッカマップ(根室)に到着した鎮圧隊は、アッケシの首長イコトイ、ノッカマップの首長ションコ、クナシリのトウフツ首長ツキノエらに取調べを行わせました。翌日、直接の加害者である37人に死罪が申し渡され、指導者であったマメキリから順番に牢から引きだして次々と首をはねていきましたが、6人目の時、牢内が騒がしくなり、大勢がペウタンケと呼ばれる呪いの叫びをあげ、牢を壊そうとしたので、鎮圧軍は牢に鉄砲を撃ち込み、逃げる者は槍で突き刺し、牢を引き倒して37人全てを処刑しました。その後、処刑した者全員の首を塩詰めにして松前に運び、胴体はその場に穴を掘って埋めて標柱が立てられましたが、現在もその場所は特定されていないそうです。クナシリ・メナシの戦いのはなぜ起きたのでしょうか。取調べの記録によると、飛騨屋の支配人、番人らが行ったアイヌの人々に対する非道、漁場労働の報酬としてはるかに少ない物品(米・煙草・マキリ)しか与えなかったこと、女性に対する暴行が日常化していたこと、毒殺あるいは釜で煮殺すと常に脅迫していたことなどが重要な背景として挙げられます。そして、戦いのリーダーであるマメキリの兄、クナシリの総首長サンキチが、メナシ領ウェンベツの支配人勘兵衛が持ってきた酒を呑んで死に、マメキリの妻が和人からもらった飯を食べて死んでしまいました。毒殺であったのかどうかの真相は今となってはわかりませんが、「アイヌを根絶やしにする」という脅しが現実味を帯びてきたのです。>(science of SIRETOKO より)