2015年の料理教室と望年会が決まったのは10月の初め。フェスタ用のピロシキとボルシチを調理していた「ふりーふらっと」でのことでした。ボランティアの皆さんが調理台を囲み交わされた会話の中で、横浜ロシア語教室のタチヤーナ・シプコーワ先生とお友達のオリガさんがカムチャツカ料理教室の開催を提案。皆さん、この提案に大喜び。その場で12月20日の調理室と望年会用会議室を予約されました。
その後、タチヤーナ先生とオリガさんが決められたメニューは魚スープのウハーと鮭のカツレツ、イカのサラダ。お二人から受け取ったレシピは、北の海に囲まれたカムチャツカならではの新鮮な鮭やイカを豊富に使う内容でした。日ごろ切り身の鮭しか買ったことのない身には量の見当もつかず、どこで購入できるかも分からない状態。«В чужой монастырь со своим уставом не ходят. (郷に入っては郷に従え)»ではないけど、 こちらの食材事情に合わせなければならないことへのご理解をいただきながら、使えそうな食材を求めて幾つかの魚屋さんや業務用スーパーへ下見に行きました。
数日前にお仕事の都合でカムチャツカ出身のオリガさんが参加できなくなったとの連絡あり。でもウラジオストック育ちのタチヤーナ先生のお父さまもカムチャツカご出身。魚料理はタチヤーナ先生の父親の味。また、お父さま御手製のカラフトスグリジャムを皆様に食べていただきたいと、これもお父様直伝のカムチャツカ風オラドゥシキを追加してくださいました。ご主人も手伝って下さるとのこと。何とかなりそうです。タチヤーナ先生に感謝。
当日の料理教室の参加者は14名。その内5名の方は協会行事へは初参加。料理教室のみに参加された4名の方たちで1グループを作り、残りの2グループは望年会組としてそれぞれ倍の量を作ることに。冒頭の挨拶と手順の説明が終わり、それぞれのグループで調理スタート。塩・コショウなどその多くが適量と書いてある大らかな(大まかな?)レシピに従って、皆様楽しそうに鮭の骨や皮を取り除き、料理を進めて行かれました。もちろん、それぞれのグループで多少違った味に。でもどのグループでも美味しい鮭のウハー、鮭カツレツ、イカサラダ、オラドゥシキができました。形は多少不揃いでも、素人料理ならばこその味わい深さ、面白さです。
望年会はロシア風に午後2時から昼食会として開催されました。参加者は19名でした。前菜のサラダ、スープ、メイン料理の鮭カツレツ、デザートのスイーツ、そしてミカンや織田先生差入れのリンゴもあるフルコースです。飲み物は、ソフトドリンク、ビール、ワイン、ウオッカ。豪華な食卓になりました。乾杯の後、いよいよ試食です。自ら作った人は、もちろん、美味しくいただき、作らなかった人も珍しい料理を美味しいと言いながら食して下さいました。それにしても、IHコンロとスープ鍋が合わず、スープが冷えてしまったのが残念でした。細部に配慮が行き届かなかった反省点です。参加者の皆様の会話ははずみ、カムチャツカ旅行の思い出、旅行への憧れ、そして来る年への望みを語りあった、まさにその名に相応しい望年会になりました。
(野口)
「敵の戦車が兵隊の数ほどあると思うか」
DVD『戦争と人間』鑑賞懇親会報告
『戦争と人間』ロケ。中央の白い帽子が河崎保さん、右が山本薩夫監督。(写真:河崎保さん提供)
戦後70年を締めくくる行事として、12月23日(水祝)に映画『戦争と人間』第三部(完結編)の鑑賞会を行いました。参加者はスタッフ4人と会員その他5人の9人でした。特筆すべきは、1973年(昭和48年)製作のこの映画の協力監督河崎保さんを招いての講演を含めての鑑賞会だったことです。
この記事を読んでおられる方の中には、1973年には生まれていない方もいらっしゃるのでは。何しろ、ご夫婦で参加された方は「私はこの映画の一年後に生まれました」と言っておられたのですから。そんな若い方を前に河崎さんの撮影秘話から。この映画の監督であった山本薩夫からの依頼で協力監督を受けたとのことでした。理由は、河崎さんは日本映画において『きけ、わだつみの声』(1950年版)をはじめとして、俳優としての実績があったこと。そして、モスクワでの日本語放送アナウンサーとして経験が15年あったこと。つまり、日ソの事情に精通しており、ソ連でのロケにおいて双方の調整役として適任であったからなのです。
その撮影の裏話として……。
①ロケは昼間だが、ソ連側は一日8時間労働なので、ロケが終了していなくても全員が「時間だ」と言って自分たちだけロケから上がろうとする。日本側の意向を伝え、「このシーンの撮影が済むまで」と何度も交渉を繰り返したこと。
②ボルゴグラード(旧スターリングラード)のロケ地では、第二次世界大戦中の塹壕をそのまま使用したこと。そして、その塹壕の中でおよそ30年前の独ソ戦で撃ち合った実砲があったこと。この鑑賞会に持ってくるつもりだったが、しまいこんで持って来られなかったこと。
③セリフのある日本人俳優はわずかな人数で、映画の中の日本軍兵士は、ほとんどロケ地で募集した人であること。旧ソ連でのボルゴグラードは南部だったのでアジア系が多く、衣装だけで間に合ったこと。
などの話を聞くことができました。映画のパンフや映画誌などには絶対に記載されない話で、参加者は大変興味深く聞いていました。
その後に映画鑑賞となりました。前半・後半でおよそ3時間の上映時間でしたが、その時間を感じさせない内容。前半では、「帝国陸軍」の内務班での制裁や初年兵のひどい扱いなどがリアルに描かれていました。関戸の父も関東軍にいましたが、通信兵でした。ヘッドホンをつけるためビンタや鉄拳制裁などはなく、勤務そのものも通信隊は歩兵や砲兵などとは違っていました。けれども、一般の内務班ではとんでもない暴行が日常茶飯事であったことが良く分ります。また、主人公が関東軍参謀たちの前で、数字を明らかにして「近代戦は総力戦である」ことを説明しても、精神力で片づけてしまう軍人の無知な横暴ぶりが目立ちました。
後半では、「敵性村落」を焼き討ちにする日本軍の姿が描かれていました。武器を持っていない丸腰の村民を殺戮していくのです。ところが、八路軍(中国共産党ゲリラ)が急襲すると、たちどころに退却してしまうのです。そして、一番の見どころのノモンハン。未見の方のために詳述は避けますが、ここに冒頭の言葉が出てくるのです。「敵の戦車が兵隊の数ほどあると思うか」と上官から聞かれ、兵隊は「ありません」と答えるのです。しかし、このノモンハンから6年後、ソ満国境の戦いで、関戸の父は日本軍の兵隊の数よりも多いソ連軍の戦車隊に遭遇するのです。映画の中では、太平洋戦争末期の戦いのように全滅する日本軍の悲惨な姿が描かれています。あまりの苛烈さに発狂する兵士の姿、戦車隊に蹂躙され自決する連隊長、弾丸を撃ち尽くし戦車に向かって突撃し全員戦死する部隊。そこには、「無敵皇軍」だの「精鋭関東軍」だのという姿は一切ありません。参加者の野口さんのお父様はこのノモンハンに出征したとのことでした。その苛烈さを鑑賞会の後に語ってくれました。
このノモンハンの悲劇は一般の国民には知らされず、日本はわずか2年後にアメリカとの戦争に突入するのです。知っていれば、勝てるとはだれも思わなかったでしょう。関戸の父自身が、戦場でソ連軍を間近に見るまでは、「アメ公もロスケも大和魂のない腰抜けだ。こんな連中に日本が負けるわけがない。日本より強い国などない」と信じていたのですから。
無知は戦争の最大の原因です。そのことを深く理解する鑑賞会でした。
(関戸)
報告・第17回大河アムール・ハバロフスク市民交流の旅 (2)
■ 第3日目 8月7日
朝から雨でした。
朝食を取った後、ニコライさんに車でホテルに送ってもらいました。
この日はダーチャコースの人は1日中ダーチャ生活です。
ホームステイの4人のうち、私とこのコースの参加者の一人、草野さんはドムラ教室、関戸さんともう一人の参加者、中島さんは市内散策です。
ドムラのヤンキナ先生が迎えに来てくれ、トロリーバスでハバロフスク州立芸術大学の教室に。
ヤンキナ先生にはドムラの弦を抑える指使いからの基礎を教えてもらいました。私は神奈川の協会の教室を受講しているので、それほど難しくはありませんでしたが、そのことを知らない先生には、大変良くできたとほめていただきました。草野さんも最初は見学の予定でしたが、少しドムラを触って(音を出してみて)、興味を持たれたようでした。教室は1時間を少し超える程度で終わりました。
その後、ホテルで関戸さんグループと合流したのち、ハバロフスクのメインストリート、ムラビヨ フ・アムールスキー通りに面したテッパンヤキ(тэппан・яки)というカフェーに向かいました。対外友好協会のゾーヤさんから、日本料理の展示会があるとのことで、誘われていたのです。ちょうどお昼時でもありました。
そのカフェーは地階にあり、中はそれほど広くはなく、しかしこぎれいな店でした。展示会はすでに始まっていました。出された料理はご飯に巻きずし、てんぷら、惣菜といったものでしたが、味は違和感なく、普通においしいものでした。
カフェーを出た後は、レーニン広場そばの本屋、次いで自由市場に立ち寄りました。自由市場は来るたびに変わっていました。昔の屋台のような店が、プレハブのこざっぱりした建物にどんどん置き換わっています。
夕方にはホテルに戻り、その後はワゴン車でビールコップといういかにもビール飲み放題ができそうなレストラン(というよりビール酒場)に行き、夕食を取りました。但しビールの生ジョキデ乾杯はしましたが、飲み放題ではありません。今年の旅行は、夕食がついているので楽です。この夕食には、ガイドのタティアナ・ティーホンさんが同行しました。
■ 第4日目 8月8日
昨日降っていた雨もやみ、快晴とはいえませんが、朝からすがすがしい天気でした。
ダーチャ組が2日間のダーチャ生活を終えて、ホテルに戻ってきました。
そのうちの4人とホームステイ組と合わせて8人が、「電車で巡るハバロフスク」に出発しました。
まずは乗り物に乗らないで、 ホテルの近くの郷土史博物館を通り過ぎて、アムール河の展望台に向かいます。展望台の前には腕を組み、片足を前に出して、少しふんぞり返っている、ムラビヨフ・アムールスキーの像があります。展望台からはアムール河が一望にして見えます。この日のアムール河は、行きかう船が起こす波以外は波がなく、大変穏やかでした。
その後教会広場(旧コムソモール広場)に向かい、アムール河に向かって降りていく、戦艦ポチョムキンで有名なオデッサの階段を狭くしたような階段を下りずに見て、ムラビヨフ・アムールスキー通りに入りました。入ったところで、アイスクリームの屋台が目に入ったので、みんなアイスクリームを食べつつ、初めて路線バスに乗り込みます。
数分ほど乗って 降りたところが、スパソ・プレオブラジェンスキーという屋根が金色の教会の広場。そこから階段を下りて、栄光の広場に行きます。ここには沖縄の平和の礎のような、ハバロフスクから出身して各種の戦争で死んだ人の名前が刻まれた石の屏風があり、永遠の炎を取り囲んでいます。このあと戻って協会に立ち寄りました。建物の中は全くの空洞で、壁にはいろいろなイコンが掲げられています。
協会の前から再びバスに乗り、次に路面電車に乗るために、線路を超えたバス停で降ります。そこで今度はクワースの屋台が目に入りました。今度もみんなクワースを飲んだことは言うまでもありません。気温が上がってそろそろ暑くなった頃です。そのような時に飲むクワースの味は格別です。
そしてやっと路面電車に乗込みました。今までいい忘れていましたが、運賃は電車もバスも同じ、一律20ルーブルです。乗ると車掌のおばさんが取りに来ます。以前は14ルーブルほどと安かったのですが、徐々に値上がりしているようです。
この電車に乗って、終点のハバロフスク駅まで行きました。駅前の広場には、ハバロフの像が駅に向いて立っています。時は12時を回っていました。
駅の中には食堂があります。その食堂で食べるグループと、周りの屋台で食べるグループとに分かれて昼食をとることにしました。この食堂では、カウンターに並んでいる料理のうち、好きなものを選んで取り、最後にレジで支払う方式になっています。お昼時とはいえ、さほど混んではいませんでした。
食事の後は、駅の見学です。日本と違って改札口というものはありません。ただし駅の建物の入り口には金属探知のゲートはありましたが。従って誰でも駅のホームに入ることができます。駅のホームは相当に長いです。列車も相当長いのですから。私達がいた時は、何本かの列車が並んでいましたが、いる間に発車した列車はありませんでした。動いているのは貨物列車を引っ張る電気機関車だけでした。実にのんびりしたものでした。
ハバロフスク駅から再び路面電車に乗って、次に訪れたのはレーニン広場です。中央に大きな噴水がありますが、その時は噴水は残念ながら、出ていませんでした。その噴水の前で記念写真を撮り、またレーニン像を拝観したのち、ここで疲れたのでホテルに 戻るという5人と別れて、3人が次に向かったのはハバロフスクで一番大きな公園、ジナモ公園です。そこはレーニン広場からさほど遠くないので、歩いていきました。そこへのバスも走っていないこともあって。
この公園には噴水がある大きな池が2段にわたってあります。夏の間、夜には壮大な噴水ショーが行われます。私たちはまずその池につきました。もちろん噴水はまだ出ていません。池のほとりにあるレストランの横で少し休憩。池のほとりでは、結婚式を終えたばかりのカップルと仲間のグループが記念写真を撮っているのが見えました。ハバロフスクではよく見かける光景です。
休憩の後は、池から離れ、そこが街の中とは思えないような林というか山の雑木林のようなところを抜け 、ムラビヨフ・アムールスキー通りにつながるカールマルクス通りに出ました。そこからはホテルに帰る方向でしたが、途中レーニン広場の前の本屋に立ち寄りました。
その本屋を出てからも、バスに乗らずに歩いて戻る途中、教会広場に差し掛かったころ、その協会から鐘が乱打されるのを聞きました。ちょうど5時になった時でした。それがやむまで聞いてしまいました。
教会広場から展望台のほうに向かっていると、小さな野外ステージの方向から音楽が聞こえてきました。何かのイベントのようです。それは「МЫ РОССИЯНЕ」(私たちはロシア国民)と銘打った歌と踊りのフェスティバルのようでした。少しの間、それを見てからホテルに戻ました。
戻ってからゆっくりする暇もなく、全員がチャーターバスでサクヴァヤージ(Саквояжь)というレストランに向かい、夕食を取りました。
夕食が終わったのは7時ごろでしたが、まだまだ明るい時間です。決まった行事はないので、各自思い思いの過ごし方をしました。
私は散歩に出かけ、先ほどの野外ステージのイベントを見ました。先ほどは子供が出ていましたが、この時は母親たちが歌を披露していました。遅くになってからは、何組かの男女ペアがタンゴを踊っていました。
~つづく~
(田中)