10月31日、当協会顧問の柴田順吉氏が脳溢血のため逝去されました。享年89歳。
柴田氏は1962年の日ソ協会神奈川県連合会結成時から日ソ・国際交流および平和運動に尽力し、全国常任理事ならびに神奈川県連理事長、会長、顧問を歴任。横浜とオデッサの姉妹都市提携成立に貢献、日ソ東欧貿易にも従事。
今年も横浜大空襲の体験を講演会やTVで語るなど、夏から初秋に入退院を繰り返しながらも最後まで精力的に活動されていました。
謹んでお悔やみ申し上げますとともに、ご冥福をお祈りいたします。
去る10月31日に亡くなられた柴田顧問とともに企画していた「すいとん会」を追悼の思いを込めて開催致します。
企画の際の話では「食料が配給になってからは『すいとん』だって、おなか一杯食べることはできなかった」と言っておられました。太平洋戦争開戦の日・1941年12月8日当時、柴田さんは「国民学校」3年生。あの時代を繰り返してはいけない、と強い口調でした。
その柴田さんの思いを引き継ぎ、平和と友好を考える集いにしましょう。
同時に、『プロレタリア文学に見られるソ連・ロシア』の学習会も行います。日本プロレタリア文学には戦争前夜の国民の貧困が生々しく描写されています。すいとんを味わい、文学の中で当時の貧困を考えてみましょう。
(関戸)
日時:2022年12月11日(日)11:00~
会場:横浜平和と労働会館5階教室
参加費:500円(食費・資料代)
お申し込み締切:12月8日(木)
※食材準備のため、必ず事前予約をお願いいたします。
第80回ロシア語能力検定試験が10月29日(土)30日(日)の両日に渡り実施され、横浜会場試験は、横浜平労会館4階と3階の会議室で行われました。今回の検定試験で目立つのは、当日欠席が多かったことです。1級は4人のところ2人が欠席となり、欠席率50%となってしまいました。3級は欠席8人で欠席率30%。4級は欠席9人で欠席率29%。2級は欠席3名で欠席率16%と一番出席率が良かったです。
毎回恒例の「アンケート」ですが、今回は特に、現在のウクライナ情勢に係り、「ロシア語への思い」「ロシア語の今後」について、特に記述してほしいとお願いしました。その一端を掲載します。
〇「私はロシア政府には全く賛同しないが、ロシアとロシアの人々を愛しているつもりである。今後、ロシアの名のつくもの対して、辛い反応が増えることが予想されるが、こんな状況だからこそ、対話の大切さを忘れないようにしたい」(1級)
〇仕事のために勉強したが、なかなか活かす場がなく残念に思う」(2級)
〇「ビザなし交流が中止になってしまった件について、もっと、世論が反発すべきと思う。日本政府はロシアに対し、対話を、もっとすべきだと思う。祖母が島民でした。」(2級)
〇「ロシア現地に行くことが、当分できないので、モチベーションがさがりぎみ」(3級)
〇「使う機会がないのが悲しい」(3級)
〇「4級に合格できたとき、人生で3番目に嬉しかったです。浪人の後の大学合格より」(3級)
〇「ロシア語を話せるようになることで、世界が広がると思うので、これからも頑張って行きたいと思います」(4級)
〇「ロシアが悪く言われるのが悲しいので、早く戦争が終わって欲しいです」(4級)
〇「ロシアの情勢は,たいへんなことになっていますが、ロシア語は面白いので、これからも学習していきたいです」(4級)
〇「ウクライナ情勢の影響か、ロシア語検定の参考書が取り扱い中止になっているオンラインショップが多く、中古しか入手できなかった」(4級)
〇「他の語学検定よりもガチな内容で、楽しかったです。露文和訳の話の内容がおもしろくて好きです」(4級)
〇「大学でロシア語を専攻していますが、とても難しく感じています。今まで、勉強をさぼりがちでしたが、気を引き締めて頑張ろうと改めて思いました」(4級)
(まとめ・写真:木佐森)
第137期は10月15日(土)より開講しました。入門~上級、会話、演劇、文学など、今期も様々な学習レベルに合わせた内容の講座を用意。学期途中からの編入も可能です。無料での見学は30分×3クラスまで。詳しくは当センターホームページをごらんの上、ぜひお気軽にお問い合わせ・お申し込みください。
昨今の情勢により注目が高まっているウクライナ語の講座を10月より新規開講しました。ジェルーリ・ラリーサ先生を講師に迎え、水曜夜の初心者向け講座(対面)、金曜夜のロシア語履修者向け講座(オンライン)2クラスとも成立。中途入学や見学も歓迎します。詳細はホームページをごらんください。
ロシア民族楽器を本格的に習える当教室は毎月2回土曜日にレッスンを行っています。
11月のレッスンは5日・19日、12月は10日・17日の予定です。詳細はお問い合わせください。
時間:14:00~17:45の間、各45分
講師:北川 翔(バラライカ奏者、北川記念ロシア民族楽器オーケストラ主宰)
会場:横浜平和と労働会館6階会議室
(2022年10月31日現在)
137期が始まり、ロシア語入門クラスに5人、ウクライナ語初心者向けクラス及びロシア語履修者向けクラスに計6人の方が入講され、また、既存クラスや個人レッスンにも4人の方が入講されました。その結果、10月入会者は10人となりました。しかし、137期非継続や移転等で退会された人が7人おられたので、10月31日現在の会員数は、9月末より3名増えて227名となっています。
(木佐森)
NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会 | 2022/10/31 | ||
---|---|---|---|
単位:円 | |||
摘 要 | 本年度当該月収入 | 前年度当該月収入 | 対前年度増減 |
一般会計 | 397,510 | 279,360 | 118,150 |
教育事業 | 2,139,558 | 1,135,915 | 1,003,643 |
一般事業 | 100,381 | 66,508 | 33,873 |
合 計 | 2,637,449 | 1,481,783 | 1,155,666 |
摘 要 | 本年度当該月支出 | 前年度当該月支出 | 対前年度増減 |
一般会計 | 628,559 | 412,898 | 215,661 |
教育事業 | 348,286 | 397,350 | -49,064 |
一般事業 | 131,334 | 118,436 | 12,898 |
支出合計 | 1,108,179 | 928,684 | 179,495 |
当該月収支 | 1,529,270 | 553,099 | 976,171 |
累計収支計 | 2,690,054 | 1,574,244 | 1,115,810 |
22年10月の財政状況は、ロシア語及びウクライナ語の入門クラスが開講されたので、教育事業収入が213万円と昨年21年と比べると100万円も多くなっています。そのため、今期は赤字になることは無いと期待されます。
(木佐森)
今月は休載です。
部分動員令発令、核ミサイル演習実施、「汚い爆弾」吹聴、ベラルーシで軍事演習等々、数々の不穏なニュースで世界中を不安にさせ続けているロシアから、2022年10月第3-4週のRussia Airplay Chart TOP10をお送りします。10曲中3曲が新曲!
極東の都市ペトロパブロフスク・カムチャツキー出身チェボチナの新曲≪Плакал Голливуд≫(ハリウッドが泣いていた)が9位にランクイン。デビュー曲となったスーパーヒット曲≪Солнце Монако≫(モナコの太陽)も現在8位というダブルチャートインを果たしました。
5位にアンナ・アスティの新曲≪Повело≫(導かれて)がランクイン。6月下旬にリリースされ、YouTube再生回数は現在300万回を達成しそうです。
4位にDJ Smashとニヴェスタとのコラボ曲≪Позвони≫(電話して)がランクイン。こちらも7位にアルティク・アスティとのコラボ曲≪CO2≫(二酸化炭素)」がランクインした状態でのダブルチャートインとなりました。
長らく首位を独占していたアンナ・アスティの≪По барам≫(貴方はバーをハシゴして)は3位に退き、彗星の如くデビューしたズィヴェルトのダンスミュージック≪Wake Up≫(目覚めよ)が首位奪取。新曲は8月中旬にリリースされ現在YouTube再生回数は540万回超え!おめでとうございまーす!:-)
(Tophit.ru, Russia Airplay Chart 2022年10月14日~22日/MOPA)
画像は https://vk.com より
※全文、チャート、PV視聴はユーラシア芸能ブログでどうぞ。
10月9日 於:武蔵野大学
原爆や原発、核問題関連の映画を集めた映画祭で、2007年より毎年開催されている。今年で16回目となる本映画祭では、開催2日目にロシアのウクライナ侵攻にあわせたカザフスタン映画が上映された。
(ルスタム・アブドゥラシェフ監督作品、2008年、カザフスタン=ロシア=ポーランド=イスラエル)
スターリン体制下において、多くの民族が中央アジアに追放または強制移住させられた。1948年の夏、あるユダヤ人の少年が瀕死の祖父とともに貨車で移送されていた。目的地に到着したとき多数の死者が出る。カザフの老人カシムは、死体の間に潜んでいたそのユダヤ人少年をみつけ、サーシカと名付けて自分の息子のように育て始めた。
彼らが暮らすカザフスタンの辺境の村には、さまざまな理由でここへ追いやられていた人々と現地人が助け合い、ひっそりと暮らしていた。だが彼らはいつも警察官の横暴に遭い、政府軍や官僚たちに服従を強要されていた。警官たちは突然現れたサーシカへ疑惑の目を向けるが、周囲の者たちは全力でサーシカを守っていた。
ある時、スターリンの誕生70年に向けて、子どもたちがスターリンへの贈り物を競うことになった。サーシカは生き別れた父母に会いたいと、可愛がっていた山羊を引き渡す。そして1949年8月29日、スターリンへの最大の贈り物がセミパラチンスクで披露された。それはソ連初の核実験であった。
上映後、本作の日本語字幕を担当したロシア文学翻訳者の村山敦子さんがトークセッションを行った。スターリンの強制移住政策は1930年から始まり、およそ20年の間に「スターリンにとって都合の悪い」17の民族、350万人が対象となったこと、強制移住先では各民族どうしが助けあって生きて来たという事実、その中にはシベリア抑留日本人も含まれていたという。
過酷な強制移住政策の下、さらにカザフスタンには核実験場が置かれることになった。このためソ連崩壊後のカザフスタンでは、アメリカ・ネバダと連携した反核運動が続けられてきた。また、ウクライナにおけるロシアの4州併合も認めないというカザフスタンの方針は、旧ソ連体制からの独立精神が生きている証であることなどが話された。
なお、本作は公開後カザフスタン中の映画館やテレビ局で放映され、1000万人近くの国民が観ているという。数々の国際映画祭でも賞を取り、2008年釜山映画祭のオープニング作品として上映された。
(文:滝沢 三佐子/写真:(C) AlDONGAR PRODUCTION)
(瀬々敬久監督作品、2022)
終戦後、身に覚えのないスパイ容疑でシベリアのラーゲリに収容された山本幡男。彼は、妻と4人の子どもを日本に残し、帰国(ダモイ)の日を信じて耐え忍ぶ生活を送っていた。彼の周りにいるのは、戦争で心の傷を負い傍観者を決め込む松田、旧日本軍の階級を振りかざす軍曹・相沢、元漁師で教育を受けたことのない青年・新谷、山本にロシア文学のすばらしさを教えた同郷の先輩・原がいた。互いに打ち解けることのない彼らだったが、山本の行動と信念は凍っていた捕虜たちの心を次第に溶かしていく。
収容されてから8年がたち、山本は妻からの手紙を受け取り涙する。ダモイの日が近づいていると感じていたが、その時山本の身体は病魔に侵されていた。衰弱する山本のために、ラーゲリの仲間は思いがけない行動に出る。
東京国際映画祭2022オープニングに上映された。出演者には二宮和也、北川景子、松坂桃李、寺尾聡ら豪華芸能人。舞鶴引き揚げ記念館で写真が展示されている実在したラーゲリ犬、クロも出演している。
12月9日より全国ロードショー。神奈川県では各シネコンにて上映。
(文:滝沢 三佐子/写真:(C) 2022 映画「ラーゲリより愛を込めて」製作委員会 (C) 1989 清水香子)
●「バビ・ヤール」
(原題:Babi Yar. Context、セルゲイ・ロズニツァ監督作品、オランダ=ウクライナ)
シネマ・ジャック&ベティにて12/10(土)~上映決定!
映画の詳細は機関紙9月号にて。
● 中央アジア今昔映画祭2022
12月に渋谷・ユーロスペースで開催決定。
10月19日 関内ホール大ホール
10月19日、横浜の関内ホールで、過去27年ぶりに来日したイーゴリ・モイセーエフ記念国立アカデミー民族舞踊アンサンブルの公演が開催されました。
このコンサートについて話す前に、この素晴らしいダンスアンサンブルの創始者、イーゴリ・アレクサンドロヴィチ・モイセーエフ―ダンスに革命をもたらし、民俗舞踊を世界文化の財産にすることに成功した20世紀の最も偉大な振付家および振付家―について少し書きたいと思います。
イーゴリ・モイセーエフは長くて興味深い人生を送りました。彼は1906年1月にキエフで生まれ、後に家族はモスクワに引っ越しました。両親は息子の教育に積極的に取り組んでいました。少年は非常に機動力がありいたずら好きで、両親は心配して、14歳の時に彼をバレエスタジオに送りました。3ヶ月後に、才能のある若者はボリショイ劇場の振付大学に入学しました。この専門学校を卒業後、イーゴリ・モイセーエフはボリショイ劇場の劇団に在籍し、1924年から1939年まで、最初はバレエダンサー群団として、次にソリストとして、次に振付家として働き、1937年には民族舞踊の国家振付アンサンブルとアンサンブルで世界初の振付スタジオを創設し、その常任理事を務めました。今年、アンサンブルは85周年を迎えます。
イーゴリ・モイセーエフは教授であり、振付の分野における国際賞の受賞者であり、いくつかのアカデミーの名誉会員であり、振り付けに関する記事の著者であり、私は覚えています...生涯にわたるツアーです。
イーゴリ・アレクサンドロヴィチ・モイセーエフは、2007年11月2日、102歳でモスクワで私たちを残して逝きました。
横浜の関内ホールで行われたコンサートには、世界の人々のカラフルで忘れられないダンスが含まれていました。コンサートは2つのセクションに分かれて開催されました。
第1幕は、カラフルな叙情的なロシアのダンス「夏」によって幕を開けました。夏はロシア人の間で一年で一番好きな時期で、暖かい服を捨てて明るい太陽と自然の恵みを楽しむことができます。
プログラムの次のナンバーはカルムィク人の踊りでした。カルムィキアはロシア南部の草原地帯に位置しています。古代から、ここの人々は遊牧民の牛の繁殖に従事し、ヴォルガ川の河口にある無限の草原をさまよいました。彼らの踊りは、この人々と動物や鳥とのつながりを反映していました―飛ぶワシ、疾走する馬、交配期の闘牛。
ベラルーシのダンス「ユーロチカ」は面白そうでした。これは村の民俗のユーモラスなダンスで、その主人公は「村の最初の男」であり、すべての地元の女の子のお気に入りです 。
モルダビアのダンスは3つのパートで構成され、女の子によるラウンドダンス、焼夷的な男性とペアのダンスなど、叙情的な部分が含まれていました。その後、19世紀後半から20世紀初頭の都市広場を描いたダンス「都会の古いカドリール」が演奏されました。最初のセクションの最後に、ギリシャの舞踊組曲「シルタキ」(グループダンス)が作曲家ミキス・テオドラキスの音楽に合わせて演奏されました。美しくダイナミックなダンスのパフォーマンス、ダンサーの衣装の美しさは、観客の嵐のような喜びを引き起こしました。
第2部は「サッカー」から始まり、サッカーの試合中の緊張、混乱、コミカルな状況をすべて驚くほど正確に伝えました。第2部は、第1部に劣らず面白かったです。それはアディゲの民俗舞踊、ベッサラビアのジプシーの踊り、メキシコの民俗舞踊、ミハイル・グリンカの音楽でのスペイン舞踊「アラゴンのホタ」、アルゼンチンの牧童の踊り「ガウチョ」、ナナイ民族の遊び「ふたりの赤ちゃんの闘い」など、興味深いユーモラスなプロットでした。最後の水兵の踊り「艦上の一日」「ヤーブロチコ」は、とても素晴らしく、今回の公演は忘れられない印象となりました。
(文:コンドラシキナ/写真:木佐森)
10月31日午後2時過ぎのことです。「12/8」を考える集いとして、すいとん会の打ち合わせをしようと電話をした時のことです。ご家族から「亡くなりました」との言葉。あまりに突然のことでした。頭が真っ白になり、しばらく言葉がありませんでした。
今、少し落ち着いたので、こうして綴っています。柴田さんと直接知り合ったのは29年前の4月でした。当時、勤務していた神奈川県立寛政高校の職員室で、非常勤講師として寛政に来られていた柴田さんと顔を合わせたのです。その時には別に言葉を交わすこともありませんでした。言葉を交わしたのは5月の日本ユーラシア協会神奈川県連合会の総会でした。「先生、どうしたんですか」と私が声をかけると、「ええ、私は30年、会員なんです」とのこと。
そして、それから4年後の1997年。柴田さんが理事長となり、私が事務局長。二人三脚で神奈川を引っ張るようになりました。
その時、柴田さんの言葉に私は大いに励まされました。「お前の好きなようにやっていいよ。失敗したときには俺が何とかするから」。安心して失敗できる。これが私の原動力になりました。当時、会員数は100人を切るほど。私は、まず会員が楽しく参加できる行事を行いたいと考えました。主体的に取り組み、参加した人が満足するような行事を行うようになってから会員数も増えて神奈川は全国一の会員数増加を果たしました。それは全て柴田理事長のバックアップがあったからです。そして、現在まで続く神奈川独自の楽しい行事は実に柴田理事長の時から始まったのでした。
思い返せば、数えきれないほどの思い出があります。その中で私が本当に感謝しているのは柴田さんの深い思いやりと優しさでした。27歳で母を、32歳で父を失った私に「俺は親代わりだからな。厳しいことも言うが黙って聞け」と言ってくれたのです。同時に、「俺は親代わりだからな。困ったことがあれば何でも言え」とも言ってくれました。ユーラシア協会の活動を通じて、人としての在り方を教えてくれたのが柴田さんでした。
「俺は100まで生きるから」と明るく話していた柴田さん。今日、お亡くなりになったその年齢は89歳。私は一つだけ、柴田さんに恨みがあります。その恨みの言葉を言わせてください。「柴田さん、11年も早く先にこの世を去るなんて。もっともっと私の尻を引っぱたいて欲しかったのに……」
今は、もうこれ以上書けません。
(関戸)
かつて、地球市民という概念があった。ソクラテスの孫弟子ディオゲネスの提唱した概念である。人種を乗り越え、性差を乗り越え互いの宗教や思想を尊重しあおうというギリシャ哲学者らの古へからの願いであった。
それは紀元前から始まった。かのカントさえもこの問題を前提に、哲学を構築していった。そして、それが歴史を経て、ユニセフや国連を築り、市民運動の原点を作り、ジェンダー運動を生んでいった。
ソクラテスの時代から願われた思想が、今エコテロリズムに走ってはいないだろうかと筆者は危惧する。今、このロシアとウクライナの戦いは、何を生んでいるのだろうか。
罪なき人々をまで、巻きこむ戦いに何の大義があるのだろうか。
今、人種が壁になり、宗教が壁になり、言語さえも壁になり、同じ種として尊重しあう精神が欠けていはしまいか。
ゼレンスキーの「武器が欲しい」という呼びかけに、時代の狂気の片鱗を感じるのは、私だけであろうか。
先日、日経新聞のリサーチによると、ロシアのウクライナ侵攻を非難しているのは、世界人口の36%とでた。ロシアに同調が32%、中立が32%であった。(引用:2022年6月27日付日本経済新聞朝刊「Deep Insight」〈出典;Economist Intelligence Unit〉これを、どう読みとくかが、今後の未来へのKey-pointになっていこう。
第一次世界大戦前、ロマン・ロランは反戦の思想を、紙面に掲げた。
その意味を、今、もう一度問いかけよう。殺人に大義名分はなく、今日、世界は文化の停滞や破壊という負の連鎖が続くブラック・ボックスにはいってはいまいか?希望だけが、明日を育み、志の高さと喜びの共有は、紛うことなく未来へつながる道である。
もう一度、憎しみや嫌悪の前に、平和の概念を構築しよう。死の商人を走らせてはいけない。恐怖が恐怖を生み、憎しみは憎しみしか生まないことを忘れまい。
日本は、唯一核戦争の悲惨さを味わっている。その酷さも忘れないで、未来へ平和の尊さを告げていこう。地球の滅びの兆しは、今、温暖化と共に進んでいる。今は、その戦いで精一杯である。人々は、理解しあい、認めあい、学びあう存在であるというテーゼを、思い出そう。
あらゆる文化と人間性が、破壊されていないか?戦争の克服は、昔から人類に課せられた大事な課題であり、それを克服してこそ真の文化は存続する。
ここで質問がある。戦争は何の役にたつのか。私たちは、各思想や知的良心の擁護者でありつづけよう。互いの美を共有し、良き理解者であろう。『狭き門より入れ、滅びに至る門は大きく、その道も広い』(新訳聖書マタイ伝・七)
未来のために、この難局を乗りきる覚悟が、今試されている。
(中出)
この秋からウクライナ語の勉強を始められた方がいらっしゃると思います。現在の世界情勢に不安を抱き、迷いながらロシア語の勉強を続けていらっしゃる方も…。その方々に私から贈りたい言葉があります。それは私が尊敬してやまない徳永晴美先生が、かつておっしゃった「今こそ、勉強するチャンスだ!」という言葉。
徳永先生はご存知のとおり、今ではロシア語通訳の大御所でいらっしゃいますが、昔は、若手通訳者のおひとり。それでも当時から「ロシア語通訳の第一人者」と呼ばれていたほどの方です。その徳永先生の凄いところが、とにかくプラス思考でいらっしゃるのです。ポジティヴの固まりのような方。たとえマイナスだと思われることでさえ、ご自身でプラスに変えてしまわれる。今から42年前に徳永先生がロシア語通訳協会を作られた時のお言葉が「仕事が無い今こそ勉強するチャンスだ!皆で今のうちに、勉強しておこう!」。
当時のソ連も世界中から非難を浴び、日本とソ連とのビジネスも途絶え、日本のロシア語通訳者の仕事は、全てキャンセル。絶望のうちに廃業に追い込まれる通訳者も多かったと聞きました。そのような中で、徳永先生のお言葉は「がんばろう」などというものではなく、「今のうちに勉強しておこう」という、必ず将来、ロシア語通訳者が忙しくなる…と信じて(予言というものかもしれません)先を見据えたものでした。
そして、その後、それは現実となります。42年前、当時のロシア語通訳者は、徳永先生のお言葉が“暗黒の荒海の中で見た灯台の光”のようなものであったのかもしれません。今、私は不安に駆られるロシア語学習者に、ぜひ聞いていただきたい。「今こそ勉強するチャンスだ!今のうちに勉強しておこう!」と。
(とくなが なつみ)
19世紀の詩人の名で知られるネクラーソフという姓がある。日本語の「根暗」とかけて茶化す向きもあるが、実際のロシア語での語幹Некрас(ネクラース)の意味はまたひどい。「美しくない」「不細工」である。ネクラースは古代ロシアの男性の世俗名で、その子を表す父称ネクラーソフが後に姓に転じたものだ。
同様に、ドゥラコーフ(ドゥラーク=馬鹿)、ネゴジャーエフ(ネゴジャイ=役立たず)、ネナーシェフ(ネナーシ=我々のではない)、ナイジョーノフ(ナイジョーン=見つけた)、ナホートキン(ナホートカ=拾い物)、クラーデノフ(クラーデン=盗まれた)など、まるで「橋の下から拾ってきた」かのような名前に基づく父称由来の姓を見かけることも。大切な可愛いはずの自分の子に、一体何故そんな名をつけたのだろうか?
それは勿論罵るためではない。昔は子供を新生児のうちに亡くすことも珍しくなかった。当時の人々の間では、穢れた力、悪霊が良い子を好んでさらって行くと考えられていた。またルーシと呼ばれた地域にはキリスト教受容後から17世紀頃まで、洗礼名と共に二つ目の名前として世俗名をつける習慣があったのだが、良い意味の名前をつけるとそれに反する性質を招くとも言われていた。そこで悪霊を欺いて子を守るために、故意に悪い意味の名前をつけて呼んだのである。子供の健康や美しさや善良さを願ってのことだ。
ちなみにドゥラークという世俗名は15~17世紀のロシアでは珍しくなかったそうだ。このような風習は他の地域にも見られる。テュルク系民族の間では20世紀になっても存在し、例えばキルギスにはタバルドゥ(見つけた)、タシュトゥンドゥ(捨て子)という名があった。またモンゴルでは現在でもネルグイ(名無し)、エネビシ(これではない)、フンビシ(人間ではない)といった魔除けの名を持つ人も多いという。
子供が無事に育ってほしいという親心の表れも、時代や場所によって様々である。可愛い赤ん坊に目を細めながら「罵りの言葉」をかける様子は、我々から見ればなかなかに奇妙な光景に感じられはするのだが。
呼ばれる側としては、名付けの意図に納得し、周りにもそんな名前の人が多ければ、案外気に入っているという人もいたかもしれないが、意味が意味だけに決して愉快ではないという人もいただろう。
当然のことながら、ネクラースと名付けられた人が皆不細工だったわけではなく、ドゥラークが皆馬鹿だったわけでもない。その子孫や縁者であるネクラーソフ氏やドゥラコーフ氏もまた然り。このような姓も昔の風俗習慣が残されたものの一種である。
魔除けの名もいくらかは功を奏したのだろうか。ネクラーソフ、ドゥラコーフといった父称ができたということは、「不細工」「間抜け」などと名付けられた赤子が生き延びて成人し、子を成すまでに至った証でもある。
(横嶋 冬美)
参考文献:
В. А. Никонов ≪ГЕОГРАФИЯ ФАМИЛИЙ≫ (1988), ≪СЛОВАРЬ РУССКИХ ФАМИЛИЙ≫ (1993)(V. A. ニコノフ『姓の地理学』『ロシア姓氏辞典』)
昨年12月に亡くなられた元会員の越智二郎さん所蔵の木製入れ子人形マトリョーシカやロシア民芸品を協会で譲り受け、横浜平和と労働会館5階の教室に飾りました。来所の機会があればぜひごらんください。
これ以外にも沢山あるので通常は一番大きな人形の中に組になる全部の人形をしまった状態で展示してありますが、時間や場所があれば、開け閉めして一番小さな人形まで見てあげてはいかがでしょうか。中まで丁寧に絵付けされたものが多いはずです。
※協会事務所は平日・土曜12時~18時営業。5階教室は授業で使用中の場合がありますので、授業以外で来所される方は事前に空き状況をご確認ください。
「日本とユーラシア」神奈川県版は会員みんなで作る機関紙です。ユーラシア(旧ソ連地域)関連の投稿をお待ちしています。
催し物の感想、旅行記、講評、写真、絵などさまざまなジャンルの投稿を歓迎します。
作品は自分のオリジナルか著作権者の許可を得たものに限ります。
デジタル画像はテキストファイルに貼りつけず、別ファイルでお送りください。
また、ペンネームや注意事項があればお書き添えください。毎月末締切、翌月15日頃に発行見込み。
※投稿記事は誹謗中傷や公序良俗に反するもの以外ほぼ原文のまま掲載していますが、必ずしも協会としての見解を反映するものではありません。