◆ 第153回 弟ボリスとの対立
1363年の前半、ヴォルガ右岸にいるアブドゥラフ汗から、新大公ドミートリー四世に大公国勅書が届けられた。これでドミートリー四世は、ムラト汗からの勅書に加えて二つ目の大公国勅書を手にすることとなった。しかしながら、自分に敵対するアブドゥラフ汗から勅書を得たことを知ったムラト汗は激昂し、彼は夏の半ばにドミートリー四世の敵であるスーズダリのドミートリー三世へ自らのわずかな部隊と使者を派遣して、ドミートリー三世に大公国勅書を手渡した。勅書を得たドミートリー三世はムラト汗の少数の部隊と使者、それに自身の従士団と共にウラジーミルへ入城、だがその12日後にはモスクワの軍隊によってそこから追い出されてしまった。その後ドミートリー三世はスーズダリで籠城したが、モスクワの軍隊が彼の世襲領地の周辺を荒らし、スーズダリにドミートリー三世を居座らせるつもりのないことを知ると、彼はモスクワのドミートリー四世の権力を認め、大公国勅書を放棄した。
1364年、サライにて新しい汗アズスが即位した。幾人かのルーシ諸公はモスクワ一族の統治に不満を抱いていたので、汗国での権力交代を利用し、ウラジーミル大公位をめぐるスーズダリとモスクワとの戦いを再燃させようとしたが、その時ちょうどスーズダリではドミートリー三世と彼の弟ボリとの内紛が勃発していた。それでも、ドミートリー三世の息子ヴァシーリーはアズス汗の元へ向かったわけだが。
ドミートリー三世とボリスの兄であるアンドレイが亡くなった後、ニージニー・ノヴゴロドはドミートリー三世のものになるはずであった。ドミートリー三世はニージニー・ノヴゴロドへ向かったが、ゴロジェツにいたボリスがニージニーを占拠して、ドミートリー三世はどうすることもできなかった。
冬にサライから、父親のための大公国勅書と汗の使者とを連れて息子ヴァシーリーが帰って来た。しかし、ドミートリー三世は、弟ボリスとの内輪もめすら解決できなかったことによって、大公位を奪取する道を諦めざるを得なかった。彼はモスクワのドミートリー四世のために大公国勅書を手に取るのを拒み、その代わり、血のつながりがある彼に、弟ボリスに対抗するための軍事援助を求めた。ドミートリー四世は最初和解を勧めたが、ボリスは聞き入れず、ラドネジの聖セルゲイが使者としてモスクワから遣わされた。聖セルゲイによってすべての教会が閉鎖され、モスクワからドミートリー三世の元に援軍が送られると、ボリスは平身低頭して町を兄に明け渡した。
それ以降、ライバルであったスーズダリのドミートリー三世とモスクワのドミートリー四世は同盟者となった。1366年、ドミートリー三世の年少の娘であるエヴドキアと大公ドミートリー四世が結婚したことによって、この結びつきはさらに強められた。1383年ドミートリー三世は逝去、聖スパス・ニージニー・ノヴゴロド教会に埋葬された。
次回は「ドミートリー四世の家族」。乞うご期待!!
▲現在のニージニー・ノヴゴロド(Wikipediaより)
(文:大山・川西)
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