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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第154回 ドミートリー四世(統治1363-1389年)の生い立ち

 1350年10月12日、ズヴェニゴロドにて、イヴァン・カリターの息子でありその土地の公であるイヴァン(後の大公イヴァン二世)の家族に、第一子が誕生した。祝いの行事が行われた10月26日、聖ドミートリー・ソルンスキーの日を記念して、その子はドミートリーと名づけられた。1354年の春に、父親はウラジーミル大公位に就いてイヴァン二世となった。ドミートリーは長男の権利に基づいて、モスクワにおける彼の後継者とみなされるようになった。

 1359年11月13日、イヴァン二世は長男ドミートリーに自分の領地の大部分(それにはモスクワの三分の一の土地と直接の固定資産、及びモスクワの国庫からのかなりの収入を含む)を遺言によって譲り、亡くなった。一族の年長制に従って、モスクワ大公の地位はドミートリーのものとなった。とはいえ、ドミートリーの領地は、モスクワ大公のそれとしては比較的に慎ましやかなものであった。すなわち、幾つかの郷を伴ったモジャイスク、リャザンとコロムナの一部、ロクシャ川のほとりにあるロマノフスコエ村、これらが彼の領地となった。その他六十ものモスクワの郷とモスクワの土地の三分の二は、弟のイヴァン、未亡人である三人の大公妃、亡くなった叔父アンドレイ(イヴァン二世の弟)の息子ウラジーミルのものであった。

 1360年の春、大公位要求者であるルーシの諸公らは、それぞれ財宝を携えて汗国へ向かった。無論のこと、9歳のドミートリーがその長であるモスクワの代表団も向かった。ところが、汗国のナウルーズ汗には、このモスクワの代表団が推す9歳のドミートリーはあまりの若年の故に真剣に考慮する対象とはなり得なかった。結局、ウラジーミル大公国の勅書を手にしたのは、スーズダリ公ドミートリー(ドミートリー三世)であった。

 このことによってモスクワは、威信を失ったばかりでなく、ロストフの土地をも失った。また、ウラジーミル公国にある領地とガーリチ公国から徴収される租税と様々な種類の人頭税は、それ相応の利益をモスクワの国庫へもたらしていたが、それらも失うこととなった。しかしながら、モスクワの貴族らは、ウラジーミル大公位にはモスクワ公一族が就くべきだと考えていた。イヴァン・カリターの統治開始から30年ちょっと経っただけとはいえ。大公国勅書をめぐる新大公ドミートリー三世との論争において、モスクワの貴族らの主張には、一つの法的な根拠があった(この根拠は汗国では何の意味も持たなかったが)。それは、ドミートリー三世の父親は一度もウラジーミル大公位には就いておらず、ルーシの昔からの伝統に従えば、彼自身もウラジーミル大公位に就く権利を持たない、ということであった。しかし、その同じ伝統に従えば、スーズダリのドミートリー三世には、一族の年長制における絶対的な権利があることもまた事実であった。モスクワの若いドミートリーはドミートリー三世の遠縁の甥にあたるのであり、双方の共通の祖先であるヤロスラフ二世を起点とする系譜においては、ドミートリー三世の方がヤロスラフ二世により近しい子孫であった。

 次回は「ドミートリー四世、大公となる」。乞うご期待!!


挿絵:ドミートリー四世
Википедия, Дмитрий Иванович Донскойの項より

(文:大山・川西)

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