
◆第21回 ヤロスラフの教会整備
ヤロスラフはキエフに座したが、ポロツクの地と、彼の異母弟であるムスチスラフが治めるトムタラカニだけは服従することを拒んだ。
1023年、ヤロスラフがノヴゴロドへ赴いている間に、ムスチスラフは大軍を率いてキエフへ近づいた。近年の諸公の内乱にひどく飽いていたキエフ住民らはムスチスラフを受け入れず、彼の方も強襲には踏み切らなかった。しかし、ムスチスラフは全北東ルーシの中心都市であったチェルニーゴフを占領した。翌1024年、チェルニーゴフ近郊で彼は、軍隊を率いてやって来たヤロスラフを撃破したが、続いてキエフを再び襲撃することはなかった。ムスチスラフはその後、首都を要求しはしなかった。
ムスチスラフは、兄のヤロスラフに、「自身のキエフに座したまえ…我はこの地にいよう」と提案した。兄弟は和平条約を結び、権力も領土も配分した。ヤロスラフには、ドニエプル川の右岸の土地を含めたキエフと、北方の地を含めたノヴゴロドが残った。チェルニーゴフを含む左岸の土地すべては、ムスチスラフの方に移った。1036年、ムスチスラフが亡くなった。彼には後継者となる子供たちがいなかったので、ルーシは再びヤロスラフの下に統合された。
この年、ムスチスラフの死とヤロスラフのノヴゴロドへの定期的な出立に乗じて、ペチェネグ人がキエフを包囲した。ヤロスラフの長男ウラジーミルが包囲を押しとどめている間、ヤロスラフはノヴゴロドの義勇兵を集めた。ペチェネグ人は彼に完膚なきまでに粉砕された。キエフではこのことを記念して、最も激しい戦が行われた場所に新たな寺院、聖ソフィア大聖堂が起工された。それは1039年に神聖化された。
ヤロスラフは、ルーシの教会の整備に注意を向けた。彼はキリスト教のイデオロギー的な力と、ルーシの地の統一におけるキリスト教の役割を理解していたようである。ヤロスラフ自身は信心深く、教会の著作物に通じ、しばしば聖職者らと論議した。彼はルーシの地で読み書きのできる最初の大公であったらしい。まだ生前に、ヤロスラフは民衆から、「本の虫」、または「賢公」というあだ名をもらった。至る所で教会や修道院が建設され、それらに付属して学校が開設された。教会に付属して最初の図書館が建てられ、外国から文献が手に入れられ、ギリシア人やブルガリア人が書いた教会書籍や歴史書籍、ならびに世俗的な作品が、様々な場所で翻訳された。こうしてルーシの諸公は、聖堂建設によって自分の罪を償うことを願いつつ、自らの信仰深さを証明したのである。
ペチェネグ人に対する勝利を記念して建てられたキエフの聖堂は、ビザンチンからの精神的宗教的継承性を強調するために、コンスタンティノープルの主要な大聖堂と同じく、聖ソフィアと名づけられた。さらに1045年、大公の息子ウラジーミルは父の命令で、少し大きさは小さいがキエフにあるのと同じような聖ソフィア聖堂をノヴゴロドで起工し、1050年にそれは神聖化された。その後、キエフ権力はあらゆる機会に、ビザンチン総主教からの自身の独立性を強調しようと努めていくのである。
次回は「ルーシの法典の編纂」。乞うご期待!!
(大山・川西)
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