日露戦争終結100年記念講演会「日露戦争と日本正教会」

「日本勝った、ロシヤ負けた!」と幼い子供達に歌わせた人達がいた。
日清、日露の戦いはその後の日本軍国主義の一里塚となった。
然し、「大本営発表」にはない、隠れた日ロ両国民の交流史があった。
当会では、憲法第9条を守り、再び日本を戦争する国にしないため、
此の講演会を企画しました。

テーマ:「日露戦争と日本正教会」
講師:長縄光男(横浜国立大学教授=写真)
日時:5月29日(日)講演:14:00〜16:00 懇談 : 16:00〜17:00
会場:横浜平和と労働会館5階
会費:1,000円(茶・菓子付)

5月29日(日)、横浜平和と労働会館で標記の講演会が開催されました。
地味なテーマでしたが20名を超す熱心な参加者がありました。
長縄光男先生の講演の中心は日露戦争時の正教会を中心とした「銃後」の話。
講演は次のようなレジュメに沿って行われました。

「日本正教会」の正式の名称は日本ハリストス正教会教団。
「ハリストス」とは:「キリスト」のロシア語風の発音による。
「正教」の「正」とは:「正統」ということ:6世紀 filioque論争。
「東方正教会」という呼称の由来、「ギリシャ教会」という呼称の由来。

・「ロシア教会」という呼称の生まれる経緯
988年  ロシア、正教に改宗。
1054年 東西両教会大分裂。
1453年 東ローマ帝国の滅亡。
1473年 イヴァン3世とソフィア・パレオログとの結婚。国章(双頭の鷲)を継承。
1589年 モスクワ府主教、総主教に格上げ。

 ハリストス正教会

・日本における正教小史(日露戦争との関連において)
[1855年 日露通商友好条約(下田条約)締結]
[1861年2月 ロシア、農奴解放 大改革の始まり]
1861年(文久元年)6月 修道司祭ニコライ・カサトキン来日。
[1868年 明治維新]
1871年(明治4年) ロシア正教宣教団発足(ニコライはこの時「掌院」)。
1880年(明治13年)ニコライ、主教となる。
[1889年(明治22年)憲法発布]
[1890年(明治23年) 教育勅語]
[1891年(明治24年)1月 「不敬事件」]
同年3月 ニコライ堂、完成。
[同年5月 大津事件]
[1892年(明治25年)「教育と宗教の対立」問題]
[1894-95(明治27年-28年)日清戦争、三国干渉]
1904年(明治37年)1月「露探事件」
[1904年2月-05年9月 日露戦争]
1904年6月「正教信徒戦時奉公会」発足、「俘虜信仰慰安会」を組織。
捕虜の人数:72,408名、内訳は将官13名、佐官・尉官1,436名、兵卒70,959名、
収容所:北は弘前から南は熊本まで、全部で29箇所。

 
(左)話し合う日本軍将校とロシア軍捕虜 (右)大家旬南西くぼ地にある28センチ榴弾砲の試射場

1905年4月30日 この年の復活大祭。
[同年8月31日 講和条約、日比谷公園焼き討ち事件]
1906年(明治39年)ニコライ、大主教となる。
1912年(明治45年)ニコライ。永眠

いろいろなエピソードを交え興味深い講演でした。
特に、ニコライ大主教の生涯、日露戦争時の世間から隔離された生活、その人柄などが印象的でした。
質疑応答では、「ロシア正教の日本に於ける布教の目的は?」、
「何故正教は日本で多数の信者を獲得できなかったのか?」などの立ち入った質問があり、
先生は丁寧にこれらの質問に答えられました。引き続き行われた交流会では、
くつろいだ雰囲気で質疑や参加者の意見の交換などが行われました。

 

 




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