大公ヴァシーリー二世は、自分の二番目の息子であるイヴァンの運命を、自分が死ぬかなり前から描き上げていた。その頃になると、大部分の諸公や民衆の意識の中には、公位が父から息子へ継承されていく新たな秩序がしっかりと根付いていた。
とはいえ、公家の内部では、一族の最年長者が権力を握るという古来から続いてきた制度はまだ完全には忘れ去られてはおらず、それを土壌として内紛が時折勃発していた。
こういった背景もあり、ヴァシーリー二世は自分の後継に関するあらゆる根も葉もないうわさや疑惑を前もって排除しておくためにあることをした。1450年、ヴァシーリー二世は、当時10歳になった二番目の息子イヴァン(1440年1月22日生まれ)を、自らの共同統治者、また大公とし、それを正式に発表したのである。それ以降、文書や口頭での指示、公式の条約や勅令は、二人の大公の名前で発された。
1451年、息子イヴァンは形式上だけであったとはいえ、ドミートリ―・シェミャカを征伐しに行くモスクワ軍を指揮して先頭に立った。さらに、15歳の時には、形式上だけでなく実際においても、目の見えない父親を補佐する立派な共同統治者となった。1460年にヴァシーリー二世がノヴゴロドへ赴いた時、彼はどんな不安もなく、モスクワを息子に委ねたのだった。
ヴァシーリー二世は同じく、息子イヴァンの配偶者も自分で決めた。
その頃、モスクワとトヴェーリとの同盟は、その当時の慣例に従って結婚の絆によって固められた。1447年、7歳のイヴァンは、トヴェーリ公ボリス・アレクサンドロヴィチの娘である5歳のマリヤと、婚約式を挙げた。その5年後の1452年には二人の結婚式が挙げられ、1458年には二人の間の唯一の子供である息子イヴァンが誕生した。
1462年3月27日、大公ヴァシーリー二世が死去した。その時にはイヴァンはもうすでに何年も、父親と同等に国務に携わっていた。貴族や諸公、そして民衆は、息子イヴァンによる統治を自然に受け入れ慣れ親しんでおり、国内にどのような破壊行為も起こることなく、モスクワ大公国は後継者である息子の手に渡った。モスクワ大公、イヴァン三世の誕生であった。
イヴァン三世が汗国から大公国勅書を受け取ったかどうかについては、年代記には何も記述がない。しかし、幾人かの研究者は、間接的な証拠を通してそのような事実があったと推察している。
次回は「イヴァン三世の統治の初期」。乞うご期待!!
(文:大山・川西)