
◆ 第123回 ユーリーの野望
諸史料の中には、モスクワ公ユーリーの自分勝手で何をしでかすか分らない性格が記されている。彼の弟のアレクサンドルとボリスが1306年にモスクワ公国から敵対していたトヴェーリへ去ったが、そういった事実も、ユーリーの性格の難しさを裏付けているだろう。その同じ年、ユーリーは、すでに五年もの間モスクワに捕虜として留め置いていたリャザン公コンスタンチンを殺すよう命じ、彼が治めていたコロムナを自分の領地として確保した。
また、ユーリーは、大公ミハイル二世とノヴゴロドの人々との関係がうまくいっていない状況を利用して、ノヴゴロドの地で自分の支持者を増やし、それらの人々を密かにまとめ上げようと試みた。1312年には、事は大公ミハイルとノヴゴロド側の軍事衝突にまで至った(第114回参照)。
1313年に、新たにキプチャク汗国の統治者になったのは、ウズベク汗であった。ルーシ諸公は恒例の如く、高価な贈り物を持って忠誠を示すために新しい汗のもとへ向かった。この時、大公ミハイルがルーシの地を不在にしていた隙を狙って、ユーリーはノヴゴロドに対してはっきりとした態度に出ることに決め、彼は自分の信頼するルジェフ公フェオドル(モスクワの同盟者)をノヴゴロドへ差し向けた。ノヴゴロドではその時に至るまでにどちらの方か多かったのか――ユーリーの純粋な支持者か、あるいはミハイルに敵対する者たちか――は不明であるが、1314年の初頭にノヴゴロドの民会で、大公ミハイルの代理人を追放し、自分たちの公として新たにモスクワ公ユーリーを招くことが決定された。これらすべての動きの背後にフェオドル公の働きがあったと思われる。ユーリーは弟のアファナーシーを連れて、まだ冬が終わる前にノヴゴロドへ到来し、人々から正式にノヴゴロド公の位を授与された。
その間、汗国に滞在していた大公ミハイルが、新たな統治者のもとに忠誠を示しにやって来ないばかりでなく、ルーシの地で身勝手に振る舞っているモスクワ公の挙動に、ウズベク汗の注意を向けさせたことは十分考えられよう。いずれにしても、1315年、ウズベク汗はユーリーを汗国へ召喚した。ユーリーはこの召喚にすぐさま応じ、三月の半ばには、大公ミハイルに対する苦情を携えたノヴゴロドの使者たちを引き連れてキプチャク汗国へ出立した。
一方、ミハイルの方はようやくウズベク汗から大公国の勅書を得、自分の意向を無視して勝手気ままに振舞うノヴゴロドの人々を服従させるために、タタールの軍を伴ってルーシに戻った。ノヴゴロドの人々は元来、自分たちのために自由に公を選ぶことができたが、その候補者について、少なくともウラジーミル大公の了解を得る必要があった。彼らはこういった慣習を踏みにじり、反旗を翻したのである。
次回は「ユーリーの躍進、ミハイルの退去」。乞うご期待!!
北方からのノヴゴロドの町の外観、14世紀(booksite.ru/enciklopedia/towns/より)
(文:大山・川西)
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