
◆ 第52回 モスクワの誕生
1139年、大公ヤロポルク二世の死後、チェルニーゴフのフセヴォロドがヤロポルク二世の弟ヴャチェスラフから力ずくでキエフ大公位を奪うと、ヴャチェスラフの腹違いの弟であるユーリーは、キエフ遠征のために同盟者を探して軍隊を集めようとした。ところが、ノヴゴロドの人々はすでに新大公フセヴォロド二世との交渉の席についており、ユーリーに対する援助を拒んだ。同年9月1日、ユーリーの息子ロスチスラフはひそかにノヴゴロドを立ち去り、父のもとへ逃走するはめになった。
1146年の秋、ユーリーの甥であるイジャスラフ二世がキエフ大公位に就いた。今やユーリーには、イジャスラフ二世と戦うための明白な理由ができた。彼はイジャスラフ二世より年上であり、兄のヴャチェスラフに次いで、一族の中で最年長者の権利を持っていたからである。だが、イジャスラフ二世の敵はユーリーばかりではなかった。イジャスラフ二世の前に大公位に就いていたチェルニーゴフのフセヴォロド二世の実の弟であり、年齢的にはユーリーよりも年上のスヴャトスラフが虎視眈々とキエフを狙っていたのである。スヴャトスラフは、ユーリーを同盟者に招き、イジャスラフ二世に戦いを挑んだ。結果は、スヴャトスラフとユーリーの敗北に終わった。彼らは攻撃の方向を変え、スヴャトスラフはスモレンスクの地の一部を奪い取り、ユーリーはノヴゴロドの地を押さえた。
1146年末、その後の作戦を練るために、ユーリーはしつこく同盟者であるスヴャトスラフをモスクワに招いた。彼は、「私のもとへ来たれ、兄弟よ、モスクワへ」と、招待状にしたためた。こうしてロシア史上、チェルニーゴフの年代記の中に初めて、やがて巨大な国家の首都となるモスクワの名が登場する。12世紀半ば頃のモスクワについて、古代の無名の作者は次のように書いている。「モスクワ川のほとりに、立派な領主であるステパン・クチクの美しい村があった」。しかし、このチェルニーゴフの年代記では、モスクワが町であったのか、あるいは、スーズダリの地からチェルニーゴフやキエフへ向かう途中にある単なる幾つかの移住地の一つであったのか、あるいはある種の大きな宿場であったのかを、明確にしていない。モスクワは、広く世に知られたそのフィン-ウゴル語の名称以外に、クチコヴォという古代ルーシ語の名称も持っていた。誰がこの移住地を築いたのかは分からない。しかし、ユーリーはこの移住地に、戦略上重要な価値を見出していた。ここからは、ノヴゴロド、スモレンスク、チェルニーゴフ、リャザンの地の境まで、それぞれすべて二日の行程で行けた。1156年、ユーリーは、モスクワを巨大な木造の城壁で囲むよう命じ、その後彼の息子アンドレイは、ステパン・クチクの領地の場所に、自分のために強固な城を建てた。これがモスクワ最初の要塞であった。
1147年4月の初頭、チェルニーゴフのスヴャトスラフはモスクワに到着した。この時、「ユーリーは盛大に正餐を催すことを指示し、スヴャトスラフに敬意を表し、多くの贈り物を贈った」といわれている。
次回は「ユーリーの宿敵」。乞うご期待!!
(大山・川西)
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