
◆ 第96回 大公アレクサンドル・ネフスキーの死
サライにあるキプチャク汗国の本営を出立した大公ネフスキーは、すでに病に冒されており、ヴォルガ川に沿って帰還した。ネフスキーの健康状態の深刻な悪化は、彼の後半生を苦しめていた痒疹とはまったく無関係のものであった。ネフスキーがサライでゆっくりと効く毒をもられていた可能性はある。それは、蜂起を起こした罰のためであったのかもしれないし、あるいはネフスキーが十年もの間ルーシの人々のために絶えず奔走したことがキプチャク汗国の高官にひどく嫌気をもよおさせたためだったのかもしれない。アレクサンドル・ネフスキーはニージニー・ノヴゴロドに宿泊し、その後無理して旅を続けたが、ヴォルガ沿いのゴロジェツにたどり着いた後、病床についてしまった。死期が迫っていることを感じた大公は、息子たちに領土を分割する指示を与え、1263年11月14日にアレクセイの名で修道士になるための剃髪式を受けると、その日の夜に逝去した。43歳の生涯であった。遺体を安置した柩はウラジーミルに運ばれた。大公の棺を運ぶ悲しみに沈んだ行列は、ウラジーミルの町から10露里のところにあるボゴリューボフで、府主教キリルと町の有力者らに出迎えられた。11月23日、大公は、大修道院の境内にある聖生神女誕生教会に埋葬された。
その祖国に対する功績を称え、死後早くから聖人視されることが始まり、民衆はネフスキーを守護天使の中に加え、一方、教会は聖人の列に加えた。1380年、ネフスキーの聖骸は移され、ウラジーミルの町にあるウラジーミル誕生修道院に保管された。
やがてネフスキーのドイツ騎士団への勝利はカトリックに対する正教の勝利とみなされるようになり、イワン雷帝の治世の初期、1547年に正教会はネフスキーを正式に聖人の列に加えた。1724年、ピョートル一世の決定により、ネフスキーの亡骸は十分な敬意をもってサンクト・ペテルブルグのアレクサンドル・ネフスキー修道院教会に運ばれた。さらに1790年、聖なる公の聖骸は、アレクサンドル・ネフスキー修道院に移され、女帝エリザヴェータ一世は巨大な銀の聖櫃を作らせて、そこに彼の遺骸を安置させた。
ネフスキーの英雄的イメージは歴史を下って第二次世界大戦中、スターリンの手によって復活した。スターリンはアレクサンドル・ネフスキー勲章を設けて、対独戦の功労者に報いたのである。
また、ロシアの有名な映画監督エイゼンシュティンは、ネフスキーのチュド湖上の戦いを映画化、『アレクサンドル・ネフスキー』として1938年に発表している。
次回は「ヤロスラフ三世(統治1264-1272)の青年期」。乞うご期待!!
(大山・川西)
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