NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

挿絵:カリスマ的軍司令官ママイ
http://ru.wikipedia.nom.al/wiki/Мамай より

 モスクワ公ドミートリーが10歳を超えると、彼を取り巻くモスクワの貴族らは、ドミートリーを連れてヴォルガ川の岸辺へ向かった。1361年のことであった。新しく即位したヒズル汗の好意を期待したのであろう。しかしながら、汗国では血で血を洗う権力闘争の真っ最中であり、モスクワの使節団は身の安全を守るために逃げ帰ってきた。

 さらに一年経つと、汗国を巡る状況は多かれ少なかれ安定してきたが、キプチャク汗国は真っ二つに分かれてしまった。サライ-バトゥで即位し治めたのはムラート汗であったが、一方、ヴォルガ川の右岸を支配したのはアブドゥラフ汗であって、このアブドゥラフ汗の背後にはカリスマ的軍司令官ママイが存在していた。

 モスクワの貴族らは汗の本営と交渉を交わすことに慣れており、彼らはサライ-バトゥへ1362年に赴いた。この時はドミートリーはモスクワに残された。しばらくして、大公ドミートリー三世の使節団もそこへ到着した。ところが、汗の上層部はルーシ諸公の係争に関わるどころではなく、大公国の運命は単純に財力によって決まった。その結果、大公国勅書はモスクワのものとなった。

 ドミートリー三世はモスクワ公ドミートリーに屈服することなく、ペレヤスラヴリにて防御態勢をしいたが、モスクワ軍がそこへ進軍すると、戦わずして自らの世襲領地であるスーズダリに去ってしまった。1363年の1月初頭、モスクワ公ドミートリーは厳かにウラジーミルへ入城し、「大公位即位」の儀式を終え、ドミートリー四世となった。その三週間後、若き新大公はモスクワへ戻った。

 その当時、公は11歳になると成人したとみなされ、貴族らは公の意見を尊重しなければならなかったが、実際に公国の実務を動かしていたのは貴族らであった。ドミートリー四世は配下の貴族らを高く評価し、彼らの働きに敬意を払った。ドミートリー四世に最も近しい人間であったのは、公の教育者だったモスクワの千人隊長、ヴァシーリイ・ヴェリヤミノフであった。当時の権力組織においては、千人隊長の職務はとても重要であった。というのは、公が不在の折には、民事権力も軍事権力も千人隊長の手中になったからである。後になって、父親の遺言に従ってドミートリー四世の後見人となったのは、モスクワ府主教のアレクシーであり、彼はその生涯の最後までドミートリー四世に良い影響を及ぼした。この頃までには、ルーシの貴族による行政機関はすでにかなり完全な形を帯びており、公には、分別があるしかるべき人々を貴族会議(貴族らの評議会)に選び出すことが重要な仕事となっていた。

 次回は「ライバルのスーズダリ公、同盟者となる」。乞うご期待!!

(文:大山・川西)

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