NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

▲ ドミートリ―四世時代のモスクワのクレムリン
http://900igr.net/より

 大公ドミートリー四世の内面においては、正直さが狡猾さと、勇気が優柔不断と、度胸の良さが露骨な小心さと、併存していた。しかし、温和さや寛大さ、謙虚さも有していた彼は、篤い信仰の持ち主でもあり、教会に対して物惜しみない寄付をした。

 彼の在世中に初めてルーシで、国事犯と公開処刑が法的効力を付与された。

 年代記作者らの中には、大公の文盲を指摘している者もいる。ドミートリー四世は、生まれ持った知恵と実践のみで統治の方法を学んでいかねばならなかった。同時代の人々は、彼の働きを、“空高く舞うワシ”というあだ名で評価している。

 40歳になった大公ドミートリー四世は、恰幅の良い頑健な体格、豊かな黒髪と顎鬚、明るく澄んだ瞳を有していた。

 とはいえ、現実の歴史においては、統治者の大公が持つ素晴らしい品格だけでは、ルーシの地は守れないものである。

 ドミートリー四世の時代にも、外部の敵と内部の内乱による破壊と荒廃が相次いで起こった。自然災害も避けられなかった。1363年から1364年のペストの流行、1365年と1371年、1373年の旱魃、そしてモスクワの大部分と木造のクレムリンを焼き払った1365年の大火事。それらに加えて、この頃、モスクワとノヴゴロドとの関係が悪化した。こういったことを踏まえ、モスクワでは、木造のクレムリンを再建するのではなく、その場所に新しく石造のクレムリンを建造することが決定された。建設は大公の結婚後しばらくしてから始まり、およそ二年の歳月を要した。北東ルーシにおける唯一の、そして新しい石造の城塞の面積は、現代のクレムリンよりわずかに小さいだけであり、そこを襲撃して占領することはどのような軍隊にもできなかった。

 1367年、ノヴゴロドとの紛争が勃発し、ノヴゴロドの住民はいくつかの強盗集団を組織してヴォルガ川とカマ川の通商路で略奪を始めた。大公ドミートリー四世はこの醜行を即座に止めさせ、和平を結ぶためにノヴゴロドの使者を自分の方へよこすよう、ノヴゴロドに求めた。その後20年間、北方の人々はモスクワに面倒な厄介事を持ちこむことはなかった。

 次回は「トヴェーリとの紛争」。乞うご期待!!

(文:大山・川西)

PAGE TOP