NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

▲ ミハイル公の印 ru.wikipedia.orgより

 1360年代になると、トヴェーリの分領諸公らの争いが目立つようになってきた。この争いは、国家間の衝突へと発展していく。

 1364年、トヴェーリのミクリンを治めていたミハイル公は、亡くなったいとこの分領地を遺言によって譲り受けた。このミハイル公は、1339年に汗国で処刑された大公アレクサンドルの息子である。ミハイル公の叔父(父親の弟)でトヴェーリの大公だったヴァシーリーと、ドロゴブーシュの分領公であるエレメイはこれに猛反発したが、ミハイルはかなりの力をつけており、結局はヴァシーリーが大公位を明け渡して自らの分領地のカシンヘ立ち去らざるをえなかった。

 トヴェーリ公家におけるアレクサンドルの子ミハイルと、アレクサンドルの弟ヴァシーリーの争いは、単なる公家の内紛では済まされなかった。ヴァシーリーはモスクワの誠実な同盟者であり、その家系はモスクワ公家と婚姻関係を持っていた一方、ミハイルの家系はリトアニア大公家との間に濃密な婚姻関係を有しており、さながら「モスクワ大公国」対「リトアニア大公国」というような代理戦争の様相も呈していったからである。

 この頃にはモスクワは大分安定してきており、石造のクレムリンを起工した後、大公ドミートリー四世は自らの下にルーシ諸公を従わせ始めた。ところが、十分な服従を示さない者が少数おり、トヴェーリのミハイルもその内の一人だった。ドミートリー四世はそのような者たちに対して軍事手段を行使しなかったものの、厳しい措置を取った。

 かくして、トヴェーリ公ミハイルは助けを求めて、自分の親族であるリトアニア大公オルゲルトのもとへ去った。ミハイルがトヴェーリ不在の間、叔父のヴァシーリー公は、モスクワとヴォロクの軍事援助を得てトヴェーリを取り戻そうと試みたが、失敗に終わった。というのも、トヴェーリの人々は最初からヴァシーリーを自分たちの大公と認めておらず、町を守り抜いたからである。トヴェーリには昔からモスクワに対する不満があった。

 1367年10月末、ミハイルはリトアニアの軍隊を引き連れて戻ってくると、自分の諸郷を奪還し、カシンのヴァシーリーの領地を荒らした。そしてヴァシーリーに和平を強制し、モスクワへ使者を差し向けた。大公ドミートリー四世は、トヴェーリと大規模な戦争を引き起こす必要こそ認めなかったが、彼の自尊心はひどく傷ついた。

 次回は「リトアニア大公オルゲルトの攻撃」。乞うご期待!!

(文:大山・川西)

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