NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

▲ 大公ドミートリーのクリコヴォ平原への進軍
(16世紀、絵入りロシア年代記集成より)
https;//ru.wikipedia.org/wiki/куликовская_битва より


Сазонов画「クリコヴォの戦いにおけるドミートリー・ドンスコイ」
https://ru.wikipedia.org/wiki/куликовская_битва より

 リャザン公オレーグは、タタールの動静について情報をモスクワへ送りつつも、それと同時に、ママイ、そして彼の同盟者であるヤガイロと密かに水面下で交渉を始めた。それは、その当時においては明らかな裏切り行為であった。

 一方、大公ドミートリーは大軍を率いてドン川へ向かって進み、コロムナに駐屯した。その大公の下へ、和平の提案を携えたママイからの使者が到着したが、その和平締結は、ルーシがウズベク汗の時代と同額の貢税を支払うことが条件とされていた。大公ドミートリーは、貢税の増額を断固として拒否した。

 こうして、今や双方の決戦は避けられぬものとなった。

 1380年9月8日の正午近く、ドン川右岸の、四方を川や小川で囲まれた広い平原である、クリコヴォの野で会戦の幕が切って落とされた。

 一般兵士の甲冑に身を包んだ大公ドミートリーは、第一戦に加わった。ドミートリーにタタール側の余計な注意を引き付けないよう、彼の軍旗の下、彼の甲冑を身につけた貴族のミハイル・ブレノクが小高い丘の上に立った。初めはママイ軍が優勢であったが、ドミートリーの従兄弟であるセルポフ公ウラジーミルの率いる伏兵が流れを変えた。夕闇が迫ってくると、タタール人は激烈な伐り合いに耐えられなくなり、背走し始めた。およそ30露里にいたるドン川右岸支流のメチ川まで、とどめを刺しながらルーシの軍勢は彼らを追撃したが、夜のとばりがママイとその残党を逃すこととなった。あと一日経てば到着するはずだったヤガイロ公は、同盟者の敗北を知ると、自分の軍隊を引き上げさせた。

 ドミートリーは二回馬から落とされ、その甲冑には無数のへこみがあった。おそらく、彼は挫傷したのであろう。会戦の終わりには、死傷者の間で意識を失った状態でドミートリーは発見された。この会戦の勝利により、彼は民衆から己の主要な呼び名となる“ドンスコイ”という異名を得た。また、セルポフ公ウラジーミルも勇敢公と呼ばれるようになった。

 ルーシの人々は八日間、“我らの会戦”と呼ばれたドン川の死闘における戦死者を悼み、クリコヴォの野に立っていた。武器を手に持つことができたのは、たった四万人だけであった。タタールの軛からの解放までまだ百年と長い道のりがあったとはいえ、この勝利は「タタールは無敵である」という、ルーシ人の間に根付いていた考えが決して真実でないことを知らしめた。また、この成功は、国家統一と独立戦争においてモスクワが指導的役割を担っていくことを約束した。

 ルーシの地のために亡くなった戦死者に哀悼の意を表するために、大公は「ドミートリーの土曜日に彼らの功績を永遠に祝う」ことを命じた。

 次回は「トフタムィシ汗の登場」。乞うご期待!!

【お詫びと訂正】
第164回本文2段落目初めの「その後二年をかけて、ドミートリーは遠征の準備を整えた」は「その後二年をかけて、ママイは遠征の準備を整えた」の誤りです。誤記を訂正して深くお詫び申し上げます。

(文:大山・川西)

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