NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

▲ ラドネジの克肖者セルギイのイコン
アブラムツェヴォ教会所蔵
(ヴィクトル・ヴァスネツォフ画、1882年)
Wikipediaより


▲ 「若きヴァルフォロメイの聖なる光景」
(ミハイル・ネステロフ画、1890年)
Wikipediaより

 1980年9月14日、ソビエト体制下にあって、クリコヴォ戦勝600年祭が祝われた。一週間に及んだこの祝典では、最終日に総主教ピーメンが、モスクワ郊外ザゴルスク(現セルギエフ・ポサード)の至聖三者聖セルギイ大修道院で、「クリコヴォ平原で母なる祖国に生命を捧げたロシアの戦士たち」のために“パニヒダ(死者のための追善祈祷)”を行った。

 その600年前の1380年、モスクワ大公ドミートリーは目前に迫ったママイとの決戦の前に、モスクワ近郊にある深い森を訪れ、そこに暮らす修道院長聖セルギイに助言と支援を求めた。タタールへ屈服して破壊と殺戮の汚辱にまみれるのか、可能性の低い勝利へのチャンスに賭けるのか――。聖セルギイは大公ドミートリーに祝福を与え、勝利を約束した。彼は「前進せよ、恐れるなかれ、主は汝らを助け給わん!」とドミートリーを激励したと伝えられている。

 この、当時すでに広く名を知られていた修道士、聖セルギイの俗名は、ヴァルフォロメイといった。彼の誕生年にはいくつかの説があるが、タタールの支配下にあったロストフで生まれた。両親は戦火に追われて故郷を棄て、モスクワ北方のラドネジと呼ばれた寒村に逃れて、そこで農民となった。少年時代はスラヴ語の聖書と祈祷書で読み書きを学んだヴァルフォロメイは、両親の死後、兄のステファンと共にモスクワ近郊の深い森に分け入り、そこに小屋と小さな礼拝所を建てた。これが至聖三者聖セルギイ大修道院の起源である。

 しばらくして、兄ステファンはモスクワの修道院に移り、ヴァルフォロメイはセルギイに改名して修道士として誓いを立てた。数年間彼は誰にも知られることがなく、試練と窮乏の歳月を森で過ごした。まもなく、セルギイの存在は農民たちに知れるところとなり、人々が教えを求めてこの隠者の周りに集まるようになった。他の修道士たちも彼のもとに集い教会を建設し始め、セルギイは師父としてその集団を導くよう周りの者から促された。

 聖セルギイとその弟子によって共住制修道生活の理念が広まった時期は、ドミートリー・ドンスコイの治世と重なる。セルギイの弟子たちはルーシ中におよそ400の修道院を設立し、セルギイの修道に関する考えを拡大することに寄与した。当時のロシア正教会の長であったモスクワ府主教アレクシイも彼に強い関心を抱き、自分の後継者にセルギイを指名しようとしたが、彼は生涯一介の修道士してとどまることを望み、この申し入れを断った。

 修道士たちに労働により生計を立てることを求め、自らも徹頭徹尾禁欲的な生活を送った聖セルギイの名は次第にルーシ中に広がり、国民的な精神的指導者として敬愛されるようになった。1392年に逝去し、その60年後にロシア正教会によって列聖された。今日のロシアにおいても、ロシア国民の宗教的、文化的発展のための基礎を築いた教会指導者として聖セルギイは最も多くの尊敬を集め、その影響は時代を超えたものとなっている。

 次回は「ドンスコイの息子ヴァシーリー一世、大公位につく」。
 乞うご期待!!

(文:大山・川西)

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