NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

 大公ヴァシーリー一世は、自分の後に続く代について、幾度となく思いめぐらした。彼が最初の遺言状を作ったのは1405年のことであり、代々の大公の例にならって、汗国への行軍出立前に作成した。その後、さらにもう一度遺言状を作った際には、彼の父親ドミートリー・ドンスコイが為した、父から息子への大公位譲渡法を一族の中でさらに定着させようと試みた。

 ドミートリー・ドンスコイの遺言状においては、ドンスコイの兄弟らについて何も触れられず、息子のヴァシーリーが大公位を受け継ぐことが暗に示されていたが、そのことは言明されてはいなかった。おそらく、その遺言状が書かれた時にまだヴァシーリーが結婚すらしていなかったからであろう。また、ドンスコイが遺言状を書いた時はドンスコイの兄弟らはもう亡くなっていた。

 しかしながら、ヴァシーリー一世が遺言状をしたためた時、彼の弟らはまだ健在であった。この根本的な違いをヴァシーリー一世がどう考えたかどうかは定かではないが、彼は大公国を息子のイヴァンに遺言で譲り、その遺言状によると、それに賛同したのは、彼の大叔父のセルポフ公ウラジーミル(勇敢公)と、弟たちの内のアンドレイとピョートルだけであった。

 1417年7月、ヴァシーリー一世の跡継ぎである息子イヴァンが20歳で亡くなった。その二年後、ヴァシーリー一世は新たな遺言状を作成し、その中で彼は大公位を三男のヴァシーリーへ譲った。そして、自分の弟らに「(息子の)ヴァシーリー(二世)へ忠誠を誓わせる」ことを試みたが、それは失敗に終わった。大公の弟の一人であるコンスタンチンは、幼い甥に忠誠を誓うことを断固として拒み、もう一人の弟のユーリーも、それに関していかなる言明も避けた。大公家に後に勃発するであろう内紛の土壌は、こうして出来上がった。

 ヴァシーリー一世が亡くなった場合、通常一族の最年長の権利は、彼の息子ではなく彼の兄弟たちに引き継がれることになっていた。ところが、ヴァシーリー一世は自分の息子を自らの後継者とし、その息子の後見を妻に委ね、そして息子と妻の二人を、息子ヴァシーリーの祖父であるリトアニア大公ヴィトフトと、弟たちの内の二人、アンドレイとピョートルに託した。別の弟であるユーリーとコンスタンチンについては、遺言状の中で一言も触れなかった。

 1425年2月27日、ヴァシーリー一世は逝去し、モスクワのアルハンゲリスキー大聖堂に埋葬された。

リューリック朝系図


 次回は「幼いヴァシーリー二世、大公位に就く」。乞うご期待!!

(文:大山・川西)

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