NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

▲ ヴァシーリー二世


▲ ヴァシーリー二世の印

画像は2枚とも wikipedia より

 自分が亡くなるかなり前から入念に遺言状を作成していたヴァシーリー一世は、大公位を三男ヴァシーリーに譲った。このヴァシーリー一世が世を去った時、息子のヴァシーリー二世はわずか十歳であった。後継者の若年を考慮して、父親の遺言状によって、後見人会議が規定された。この後見人会議に加えられたのは、ヴァシーリー一世の妻ソフィア、ソフィアの父親であるリトアニア公ヴィトフト、それにヴァシーリー一世の弟であるアンドレイとピョートルであった。ヴァシーリー一世は、自分の弟たちから大公位要求の権利が主張されるであろうことを見越していたのだろう。それゆえに、彼は自分の弟のアンドレイとピョートルと取り決めをし、彼らを後見人会議に加えた。しかしながら、さらにもう二人の弟、コンスタンチンとユーリーに、「息子ヴァシーリーに忠誠を誓わせる」ことは。

 ヴァシーリー一世が、大公国をまさに自分の一族に受け継がせようと試みていたことは明らかである。かなりのこじつけではあったが、彼はそれに際して、自分の父親ドミートリー・ドンスコイの遺言状を拠り所にした。

 ドミートリー・ドンスコイはその遺言状で、息子ヴァシーリーの次にその弟が大公位に就くことができるのは、ヴァシーリーが子供がないままに死んだ時だけである、と簡明に記した(いくつかの史料においては、ドミートリー・ドンスコイはこの遺言状を、自分の従兄弟のセルポフ公ウラジーミル(勇敢公)による大公位要求の可能性を阻止する意図で書いたに過ぎない、と解釈されている)。ここから、ヴァシーリー一世は、自身の遺言状を作成するにあたって、ドンスコイの第一の後継者はヴァシーリー一世である彼自身、それに続くのは彼の息子たち、そしてその後に一族の年長制にしたがって、ヴァシーリー一世の弟たちが大公位要求の権利を持つ、としたのである。ヴァシーリー一世の後に大公位が彼の子供たちに受け継がれるということは、ドミートリー・ドンスコイによってはっきりとは何も語られなかったが。

 ルーシにおいて、父から子へ公位が継承される新たな伝統はまだ定着しておらず、言うまでもなく、すべての公によって公認されてもおらず、ヴァシーリー一世の弟であるユーリーには、一族の年長制による大公位要求への権利が残っていた(その権利は、間接的には父親の遺言状によって、直接的には兄の遺言状によって妨げられていたが)。

 兄であるヴァシーリー一世の統治中、ユーリーは分領公としてのすべての義務を誠実に果たしていた。三人のほぼ成人した息子らを持ち、ズヴェニゴロド公でありガーリチ公でもあったユーリーは、自分の幼い4歳の甥に忠誠を誓うことは拒んだ。

 次回は「後継者争い」。乞うご期待!!

(文:大山・川西)

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