NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

ガーリチ公ユーリー
FB.ruより

ユーリーが所有していた器
ru.wikipedia.orgより

 ユーリーの捕虜となり、和平条約を結んだ後にコロムナを領地として与えられたヴァシーリー二世であったが、事態は思いもよらぬ方向へ進んでいった。

 その当時、諸公間で和平条約が結ばれると、原則として、その公に仕えていた一般軍人や使用人、さらには貴族や年少の公に至るまで、皆すべて自由に公の元を離れることができた。

 コロムナに落ち着いたヴァシーリー二世は全土に使者を送り、ユーリーに敵対する者や彼を快く思っていない者たちを自分の旗の下へ呼び寄せた。そうやって集まってきた者たちは少なくなかった。モスクワで働いていた者やユーリー個人の使用人の一部でさえ、ヴァシーリー二世の有する軍事力を評価してコロムナへ向かった。このように多人数の者がユーリーから離反していったことについて、年代記作者らは「ガーリチ公に仕えることに慣れていなかった」と説明している。問題は、慣れていない、ということだけではなかっただろう。三人のモスクワ公に代々仕えた貴族たちは、収入の多い地位をすでに世襲遺産として引き継いでおり、彼らにはすべてが取っておかれ、約束されていた。ところが、ユーリーに仕えるとなると、出世街道の道をゼロから始めなければならないのであり、言うまでもなく、高い地位の多くはユーリーの周囲にいる人々が占めるに違いなかった。彼らにとって、このようなモスクワに留まることはメリットがなかったのである。

 これらの結果、首都に居座ることができないことを理解したユーリーは、甥に大公位へ復帰するよう求めた。ユーリーの息子らも自分たちの従士団を引き連れて、モスクワを立ち去った。

 これによって、ヴァシーリー二世と新たな和平条約を結んだユーリーは、自分が奪い取ったすべてのものをヴァシーリー二世に返し、自分の息子たちに対して軍事援助を一切行わないことを約束した。この後、ユーリーは自分の領地であるガーリチへ戻り、一方ヴァシーリー二世は、ユーリーの息子たちが従士団と共に居座っていたコストロマへ軍勢を差し向けた。ガーリチ方向への退却を始めたユーリーの息子たちは、1433年9月28日、思わぬ遭遇戦でモスクワ軍を打ち破ることとなった。そこで、和平条約がすでに破られて、ユーリーの従士団も会戦に参加していたことが明らかになった。このことによってヴァシーリー二世は、1433年から1434年の冬にかけて、ユーリーに対して直接軍隊を出動させる口実を得た。

 ヴァシーリー二世の行軍は始めはすべてがうまくいっていたが、1434年3月20日、ロストフの地を流れるモグザ川での決戦において、大公の軍隊は壊滅的な敗北を被り、ヴァシーリー二世は逃走する羽目になった。いくつかの年代記によれば、4月1日、彼はしかるべき敬意をもってノヴゴロドに迎え入れられたが、親族同士の紛争に干渉しないことを決めていたノヴゴロドの人々が大公への援助を断ると、彼はさらにニージニー・ノヴゴロドへ向かった。おそらく、援助を求めてヴォルガ川に沿って汗国へ行くつもりだったのだろう。

 次回は「ガーリチ公、ユーリー死す」。乞うご期待!!

(文:大山・川西)

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