NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

ドミートリー・シェミャカ
ru.wikipedia.orgより

至聖三者聖セルギイ大修道院
ru.wikipedia.orgより

 タタール人をルーシの兵役に就かせて国境付近を防衛させ、同時に無人の地を開拓させる、ヴァシーリー二世の政策は、民族の尊厳を傷つけるものとみなして不満を持つ者がモスクワ内を含め多く存在した。一方、タタール軍の手に落ちた大公と他のルーシ諸公の解放のために莫大な身代金を支払われており、一般の民衆はひどく搾り取られていた。

 このような状況下にて、ドミートリー・シェミャカは自らの奸計を張り巡らせ始めた。

 彼は、トヴェーリへ逃走することを誓ったヴァシーリー二世が、ウル・ムハンマド汗にモスクワ公国全土の統治を引き渡すつもりだ、というような噂すら流したのである。この噂によってヴァシーリー二世に対する不満は高まっていった。

 さて、シェミャカはトヴェーリとモジャイスクの公らと申し合わせると、ヴァシーリー二世を引きずり下ろす好機をうかがって、連合部隊と同盟者らと共にルーザに潜伏した。

 1446年の1月から2月、大公ヴァシーリー二世は先駆者らの慣習に従い、少しの従者を引き連れて至聖三者聖セルギイ大修道院にある聖セルギイの遺体(不朽体)を礼拝しに出発した。大公出発の報を受け取ったシェミャカは、モスクワへ向けて出立し、2月12日に彼はその地へたやすく入場した。彼の秘密のスパイらが門を開けたのである。

 まず最初に、シェミャカは、前大公妃と大公妃の二人を捕え、大公ヴァシーリー二世とその母親で前大公妃であるソフィアの財産を奪い、大公の側近の貴族らすべてを捕え、彼らの屋敷の略奪を欲しいままにさせた。その夜、ヴァシーリー二世を取り押さえるために、モジャイスクの公であるイヴァンが出立した。2月14日、ヴァシーリー二世は嘲笑にさらされながら、粗末なそりに乗せられて、モスクワへ移送された。ところが、事を性急に進めたために大公の子供たちのことは忘れ去られていた。彼らはユーリエフに向かってボヤルコヴォ村へ逃亡し、その後、リャポロフスク公イヴァンと彼の兄弟らと共にムーロムへ避難した。

 1446年2月16日の夜、ドミートリ―・シェミャカのモスクワの屋敷にて、退位させられた大公に、国家に対する彼のあらゆる過失が列挙された起訴状めいたものが読み上げられた。起訴状の要点は、民族的な損失をルーシに与えたタタールに対してヴァシーリー二世が愛情を注いでいる、というものであった。告発者の意見によれば、カザンのタタール人をルーシの兵役に就かせたことが、その証拠であった。その後ヴァシーリー二世は、以後大公位を求めない誓いを立てさせられ、両目を潰された。十中八九、このイニシアチブを取ったのは、ヴァシーリー二世によって自分の兄ヴァシーリー・コソイの目を潰されたシェミャカであっただろう。彼はこのような形で復讐を成し遂げたのであった。

 次回は「大公位を追われたヴァシーリー二世」。乞うご期待!!

(文:大山・川西)

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