NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

ロシア正教会の八端十字架
ja.wikipedia.orgより

現在のロシア正教会の総主教キリール
ru.wikipedia.orgより

 ヴァシーリー二世に長らく抵抗していたドミートリー・シェミャカは毒殺された。ヴァシーリー二世はもっと早くにシェミャカを鎮圧しなければならなかったが、彼にはシェミャカ以外にも頭を悩ませる問題があった。

 まず、1448年には、カザン汗国のタタール人からムーロムとヴラジーミルの地を守らねばならなかった。とはいえ、タタール人の中にはルーシの兵役に就いていた者もおり、例えば、カザン汗国の王子カシムは、ルーシのためにノガイ汗国のタタール人らと首尾よく戦った。

 1451年の夏、ノガイ人はそれでもモスクワにたどり着いたが、被害を受けたのはモスクワの外郭をなす商工地帯だけであった。

 1461年にはカザン汗国と和平条約が結ばれた。

 こうした戦の最中にも、ロシア正教会には新たな動きがあった。

 1438~39年のフェラーラ=フィレンツェ公会議では、ローマ教会とコンスタンティノープル教会の合同が論じられたが、実質的には、ローマ教会によるコンスタンティノープル教会の吸収で、後者はローマ教皇の首位権を認め、教義上も重要な修正をしなければならなかった。当時の「キエフと全ルーシ」の府主教イシドールはこの公会議にルーシ代表として出席したが、この人物はコンスタンティノープル総主教庁があらかじめ手を打って任命していた合同賛成派のギリシア人であった。イシドールは会議後、モスクワに帰還するや大公ヴァシーリー二世によって逮捕されてしまった。この教会合同は、ルーシでは到底受け入れられなかったからである。ルーシにとっては、コンスタンティノープルは異端に落ちたのであり、その手先のイシドールは大公黙認のもとにモスクワを去ってローマへ逃走することとなった。その後、モスクワはもはやコンスタンティノープルから府主教を任命してもらおうとはせず、独自に府主教イオンを選出した。1448年のことである。それは、本来は府主教選出にあたって必須であった、コンスタンティノープルを筆頭とする東方の4人の総主教の同意なくして行われた。

 これにより、ロシア正教会は事実上、コンスタンティノープルからの独立を達成した。モスクワのロシア正教会は、組織的にギリシア正教会の一員であることをやめたのである。

 このことは、ある意味においては、ルーシの教会と他の正教集団とを敵対させることともなった。

 次回は「ヴァシーリー二世、ノヴゴロドの服従を望む」。乞うご期待!!

(文:大山・川西)

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