NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

ヴォルガ川を挟んで相対するカシムとイブラーヒーム
ru.wikipedia.orgより

イブラーヒームが埋葬された、カザンの城塞内にある汗らの廟
ru.wikipedia.orgより

 1450年代にはすでに、タタール軍に対するルーシの軍事力の優位性が顕著になっていた。ルーシの軍隊はタタール軍の襲来を首尾よく撃退するようになった。

 イヴァン三世は大公位に就くと、この軍事力の優位性を拠り所として、毎年汗国に貢税を支払うのを中止したと思われる。少なくとも、そうでなければ、同種族との深刻な紛争を抱えていた汗国のマフムード汗が、1465年にモスクワへ進軍してきたことを説明できない。

 この行軍はきちんと始まりすらしない前に終わりを迎えることとなった。敵対していたクリミアの汗、ハジ‐ギライが進撃してきたためで、マフムード汗はその一件でモスクワに対するあらゆる興味を失ってしまった。

 1467年、イヴァン三世は、カザンの地に着手する。

 カザン汗国は、ジュチ・ウルスの汗の位をめぐる抗争に敗れたウル‐ムハンマド汗がルーシの国境付近に退き、1438年にカザンを首都とする政権を樹立していた(第184回、185回参照)。その後、ウル‐ムハンマド汗の長男マフムーテクが父を殺害、その弟であった王子カシムはモスクワへ亡命した。1452年頃にカシムは自分の名前にちなんだカシモフという町をモスクワから与えられ、カシモフ汗国を建国し、そこはモスクワとカザンの間の緩衝国となった。

 イヴァン三世のこの時代、マフムーテクの子イブラーヒームがカザン汗国を統治していたが、地元の公らはイブラーヒームに対して反乱をもくろんでいた。

 これを知ったイヴァン三世は、王子カシムと軍司令官二人をカザンへの進軍に送り出し、ヴォルガ川までは辿り着くことができた。翌年の1468年、カザン汗国の軍隊は、仕返しとしてムーロムとコストロマの郷の一部を軽く荒らし、さらにヴャトカの町を従属させた。

 1469年、モスクワの強大な軍隊がカザンへ向かって進軍し、軍事衝突が絶え間なく繰り返されたが、決定的な会戦は結局のところ冬まで起こらなかった。勝利は翌年の春、ルーシ軍を助けるために、ヴォルガ川に沿って軍人らを乗せた強大な船団がカザンへ向かって侵攻した時にもたらされた。カザン汗国のイブラーヒーム汗は和平を求めた。和平条約の詳細は不明であるが、その後15年間、カザン汗国はモスクワに大きな厄介事をもたらすことはなかった。

 次回は「イヴァン三世の次の一手」。乞うご期待!!

(文:大山・川西)

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